「塩狩峠」
塩狩峠(しおかりとうげ)は、北海道上川郡比布町(旧石狩国)と上川郡和寒町(旧天塩国)の境にある峠[注釈 1]。天塩川水系と石狩川水系の分水界である。
概要
標高は263メートル[1]。名寄盆地と上川盆地を結ぶ交通路として開削され、北海道内の旧国名である天塩国の「塩」と、石狩国の「狩」をとって命名された。
※絹声七色:地図中央の旭川盆地を大雪山の方から石狩湾に流れるのが石狩川、その北を日本海に流れるのが天塩川で、両一級河川の中間に塩狩峠がある。
道路
1898年(明治31年)に現在の国道40号の前身となる仮定県道天塩線が開通。当初は悪路であったが1973年(昭和48年)に改良改修、1991年(平成3年)には現ルートが完成し、勾配やカーブが緩やかな峠になった。高速道路は、2000年(平成12年)に道央自動車道(旭川鷹栖 - 和寒間)が開通。峠付近は大規模な切通しになっている。
鉄道
道路開通の翌1899年(明治32年)に宗谷本線の前身である北海道官設鉄道天塩線(蘭留 - 和寒間)が県道と並行して開通した。その10年後の1909年(明治42年)2月28日に列車が分離し、鉄道員の長野政雄が殉職する事故が発生した(塩狩駅#長野政雄の殉職も参照)。
この事故は、三浦綾子の小説『塩狩峠』の題材になった。
1916年(大正5年)9月5日には峠の頂上付近に塩狩信号所が設置され、後に塩狩駅として乗降が可能になっている。
「塩狩峠 (小説)」
『塩狩峠』(しおかりとうげ)は、三浦綾子による小説および、それを原作とする映画である。1966年(昭和41年)4月から1968年(昭和43年)9月にかけて日本基督教団出版局の月刊雑誌『信徒の友』に連載、1968年9月25日に新潮社より刊行された。塩狩峠で1909年(明治42年)2月28日に発生した鉄道事故で殉職した実在の人物・長野政雄を元に、愛と信仰を貫き多数の乗客の命を救うため自らを犠牲にした若き鉄道職員の生涯を描く。
あらすじ
永野信夫
本作品の主人公。永野家の長男。待子の兄。1877年(明治10年)2月、東京府東京市本郷区 (現・東京都文京区)生まれ。祖母のトセから、母の菊は信夫を産んで二時間後に死んだと聞かされ、士族の子として厳しく、しかし愛情をもって育てられる。トセの死後、母が本当は生きており、キリスト教への信仰を全うするために幼い自分をおいて家を出た事実を知り、キリスト教を毛嫌いするようになる。尋常小学校4年生時、級友たちとの約束がきっかけで吉川修と仲良くなる。その年の夏、修一家は夜逃げ同然で蝦夷(北海道)へ引っ越してしまうが、修の父が死んでからは文通で親交を深める。旧制中学校卒業後、裁判所の事務員に就職。その年、10年振りに修と再会。修の勧めで北海道に4~5年なら住んでみてもよい気になる。3年後、23歳で北海道の札幌に移住し炭鉱鉄道株式会社に就職。翌年、旭川に転勤した上司・和倉の誘いにより旭川へ転勤。キリスト教嫌いであったが、街で出会ったキリスト教徒の男の説教を聞いたことや、父母、ふじ子の影響を受け、鉄道会社に勤めながらキリスト教信者になる。数年後、ふじ子との結納の当日、名寄駅から鉄道で札幌へ向かう途中、塩狩峠の頂上付近で、信夫の乗る最後尾の車両の連結部が外れる事故が起きる。信夫は乗客を守るため、線路へ飛び降りて、客車の下敷きとなり自ら命を落とした。乗客は全員無事に助かった。これを受けて彼の死は大きな注目を呼び、世間のキリスト教に対する見方に影響を与えた。
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#塩狩峠 #三浦綾子 #坂を下る暴走列車
「塩狩峠」は実話を素にした小説で映画化した。
小説では永野信夫という結婚間近のクリスチャンの青年が暴走した客車の車輪に身体を投じて止めて、多くの人を救った。
2024年3月31日
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引用ポスト
#まな板の上の鯉
司法、立法、行政の3権の国家権力中枢とマスメディアがグローバルマフィアの傀儡に占拠され、国政選挙も公正に行われないとしたならば、日本民族の国、日本はまな板の上の鯉である。これから一層顕著になる国が滅ぶさまを為すすべ無く呆然と見るだけである。
2024年3月29日
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