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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝ USA第51州の実態(008)昭和4年から昭和6年 ❞

 

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】

(初稿1999.10.29)
平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」www.ibaraisikai.or.jp

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」www.ibaraisikai.or.jp
※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

 

プロローグ
❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

 

❝ USA第51州の実態(008)昭和4年から昭和6年 ❞

❝ 目次


昭和4年(1929年)

★『大学は出たけれど』(昭和4年小津安二郎監督の映画)が世相を物語る。
●「一夕会」の誕生(昭和4年、1929年5月19日)
ヒトラーが28歳のハインリヒ・ヒムラーをSS(Schutzstaffel:ナチ親衛隊)帝国指導者に任命した。
世界大恐慌(1929年~、昭和4年10月24日)
※ アンドルー・メロン(当時の財務長官、大富豪)のフーヴァーへの助言
ラッセル・レフィングウェル(モルガン商会)
※ 1931年に合衆国の金準備が減りはじめたとき、卸売り物価は24%下回っており、失業率は15%を越え、3000もの銀行が倒産していた。
※ 1931年5月11日、オーストリア、ウィーンの銀行、クレディット・アンシュタルト倒産
※ ローズベルトの爆弾発言(J・M・ケインズが支持、1933年7月3日)
小選挙区性の提案
小選挙区性に対する尾崎行雄の批判
※「民主主義の数理」(小林良彰氏論文、数学セミナー、1999年10月号、P8)

 

昭和5年(1930年)
■このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州開発が切望されていた)。
●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁政策で、金本位制復帰のための措置。世界恐慌金本位制によって発生し伝播したという結論がでている。
# 昭和5年は昭和恐慌の年
# 昭和5年日本最初のトーキー映画が上映された
# <金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>
昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの金が流出した。
■経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。
■海軍練習航空隊予科練習生制度の創設(昭和5年5月29日)
青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年9月末)
ガンジーのダンディ行進(1930年3月)
・インド「被抑圧階級第一回会議」開催(1930年8月8日 ナグプール)
●ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
<「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎氏、前述)>
鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)
満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支那案内』)
牧口常三郎創価教育学会を発足させた(1930年、昭和5年
・台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
中国国民党は、国民会議において、基本的外国政策を決定し、その中で関税権の回収、治外法権の回収、最終的には租借地や鉄道など全てを回収することを謳った。(昭和6年5月)
★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。
※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、 信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。

◇当時の資本主義日本の状況◇
(1)営利行為の反生産化
(2)資本権力の反生産化
(3)資本家階級による資本の食い潰し
(4)資本家階級の腐敗堕落

◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇
浜口雄幸(はまぐちおさち)首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日-->昭和6年死亡)
北一輝日本改造法案大綱
・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。

昭和6年(1931年)
満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タンクー)停戦協定)
※柳条湖(りゅうじょうこ)事件( 1931年 昭和 6年、民国 20年9月18日 )
満州国独立承認、日満議定書締結。
※この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
※錦州(きんしゅう)爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)
※この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
※民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。
●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。
★ 若槻内閣総辞職昭和6年(1931年)12月11日)
★ 犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣、高橋是清)を行った。


本文

❝ USA第51州の実態(008)昭和4年から昭和6年 ❞

昭和4年(1929年)
★『大学は出たけれど』(昭和4年小津安二郎監督の映画)が世相を物語る。
林芙美子『十年間』より(満州は有識無産・失業青年の受け皿)
大学を出ても職業への部門は閉ざされ、知己はなく、何等の進歩性もない世界が広がり、青年は涙を忘れ、一日だけの怠惰に日を過ごしてゐたと云いっていゝ。民衆からは力強い正義感と云ふものが忘れられ、信念と云ふものが希薄だったやうに私は思ふのだ。迷える若人たちは何かを探し求めてゐた様子だった。ーー思想や土地や人間や職業を・・・(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より孫引き引用)

●「一夕会」の誕生(昭和4年、1929年5月19日)
午後六時富士見軒にて発会。
集るもの大佐、中佐、少佐級で一夕会と命名された。
会合は、毎月一回を標準として行なわれ、だいたいにおいて、討議よりも懇親を深め、会員の団結を鞏固にするというのが目的のようであった。会員を重要なポストにつかせ、それぞれの職域で上司を補佐して会の意図するところを実現せるよう、お互に協力しようとするにあった。それにこの一夕は、先に結成されていた同人会、もしくは双葉会と称していたものと、国策研究会(木曜会・無名会)といわれた会との大同団結であったことも注目すべきである。ところでこの一夕は、第一回の会合で重大な申合せを行なっている。
満州事変(一)』(稲葉正夫)によると、
(イ)陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること
(ロ)荒木、真崎、林の三将軍をもりたてながら正しい陸軍を建て直すことという二点である。
一夕会のメンバーは次のとおり。
十四期、小川恒三郎。
十五期、河本大作、山岡重厚。
十六期、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎土肥原賢二
十七期、東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固。
十八期、山下奉文、岡部直三郎、中野直。
二十期、橋本群、草場辰巳、七田一郎。
二十一期、石原莞爾、横山勇。
二十二期、本多政材、北野憲造、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一。
二十三期、清水規矩、岡田資、根本博。
二十四期、沼田多稼蔵、土橋勇逸。
二十五期、下山琢磨、武藤章、田中新一。
(高橋正衛氏著『二・二六事件中公新書、p.145)

※ アンドルー・メロン(当時の財務長官、大富豪)のフーヴァーへの助言「労働者、株式、農場主、不動産などの一切を整理し・・体制から腐敗を一掃するのです」

ラッセル・レフィングウェル(モルガン商会)
「救済策はこうです。チッカーを見守り、ラジオを聴き、密造のジンを飲み、ジャズのリズムに合わせて踊るのを人々にやめさせるのです。・・そして、倹約と労働を旨とする古い経済と繁栄に戻ることです」

※ 1931年に合衆国の金準備が減りはじめたとき、卸売り物価は24%下回っており、失業率は15%を越え、3000もの銀行が倒産していた。
(1929年9月4日以降の暴落からルーズベルト政権が発足してニューディール政策を始める1933年までの間にアメリカ全国で約6000の銀行が倒産。
540億ドルあったアメリカのマネーサプライは405億ドルと25%が吹っ飛んだ(徳川家広『バブルの興亡』講談社、p.92))

※ 1931年5月11日、オーストリア、ウィーンの銀行、クレディット・アンシュタルト倒産(ラルフ・ホートリー:「恐慌の激しい発作を、世界中の金融の中心地に伝染させた」)

※ ローズベルトの爆弾発言(J・M・ケインズが支持、1933年7月3日)「金との厳密な関係を回復させることによって、為替レートを安定させようという努力は、いわゆる国際的な金融業者の古臭い狂信であり、安定した為替レートは正しく見える誤信である」(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社より)

 

小選挙区性の提案:「カネのかからぬ選挙」「政情の安定」を理由
小選挙区性に対する尾崎行雄の批判
「選挙区は小さいほど金がかかるのであり、小党を出られなくして議席の多数が大政党に集中すれば、政情は一見安定するように見えるが、多数が無理を通すことになる。選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区性の提案は、そのあまりのバカバカしさに抱腹絶倒の外はない」

※「民主主義の数理」(小林良彰氏論文、数学セミナー、1999年10月号、P8)かなり単純化したモデルであるが小選挙区制と多数決民主主義の矛盾を数学的に指摘している。結論として曰く、・・・

1.多数決民主主義に基づいて小選挙区で決定を行うと、小選挙区で議員を選ぶ時と、国会で議決するときの合計2回多数決を行う事になる。多数決を二回重ねれば51%の51%、すなわち26%の有権者の意見が全体を支配することになる。小選挙区制度は民主主義における多数決原理を根本から否定しかねない選挙制度である。
2.定数1の小選挙区性下で行われる選挙における候補者が選挙に勝とうとする限り、すなわち得票差最大化行動を取る限り、候補者の政策は同じものになる。つまり小選挙区制においては政策によって選挙が争われることはない。このため我々有権者は形式的選択権を与えられても実質的選択権を剥奪されてしまっているということになる。
3.因に、比例代表制においては、多数決を国会の議決の時に一回しか使わないため、多数決民主主義をそのまま反映する。


昭和5年(1930年)
■このころ浜口雄幸(おさち)内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出て、日本は経済不況のどん底にあった(--->満州開発が切望されていた)。

為替相場の乱高下--->その操作と悪用。
 円レートが実勢より高く設定されており輸出不振
 ・緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)
・求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議
 ●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁
政策で、金本位制復帰のための措置。
世界恐慌金本位制によって発生し伝播したという結論がでている。

 (高橋洋一氏著『恐慌は日本の大チャンス』講談社、p.151)

# 昭和5年は昭和恐慌の年だ。翌年の6年にはGNPは、昭和4年に比べて18%のマイナス、個人消費は17%のマイナスという目を被うような惨憺たる不況だ。雇用者数は18%も減り、農産物価格は、20%以上も下がった。町には失業者があふれ、失業率は20%を越した。農村の小作農は、4割ぐらいに達する小作料を負担していた上に、農産物価格が暴落したので、生活に困り、欠食児童と娘の身売りが激増した。こうした農村の貧しさに怒り狂った青年将校は、テロに走って、政府要人を暗殺した。若いインテリは、小作農争議、労働争議を指導し、社会主義運動にのめり込んでいった。
(竹内宏氏著『父が子に語る昭和経済史』より)

# 昭和5年日本最初のトーキー映画が上映された。日本での第一作は田中絹代主演の『マダムと女房』で昭和6年だった。
徳川夢声夢声自伝』講談社文庫) 

# <金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>
金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって保証するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて高いが、同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によって決められてしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、輸出競争力のない国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として国内の通貨供給量がどんどん収縮してゆく。金本位制は、経済的な体力を必要とする厳しい経済体制である。

昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの金が流出した。この額は、解禁のために英米と結んだ借款の額にほぼ等しいものであった。生糸、綿糸といった主要輸出品の価格が1/3まで暴落した。デフレは緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げが一般化し、労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にしておよそ20%を遥かに越えた。 

■経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。
農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠食児童増加(全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆積していた。

■海軍練習航空隊予科練習生制度の創設(昭和5年5月29日)
昭和5年5月29日に教育制度改正があり、勅令により、海軍練習航空隊令が制定され予科練習生制度が創設された。(鳥越注:地方や農村の貧しいが有能な人材を集めて訓練し、戦争に駆り出そうという腹づもりだったのであろうか)。
・乙種予科練習生:S5.5.29創設、S5.6.1第一期生入隊
・甲種予科練習生:S12.5.18創設、S12.9.1第一期生入隊
・丙種予科練習生:S12.10.1創設・入隊
・乙種予科練習生(特):S17.12.7創設、S18.4.1第一期生入隊
(倉町秋次『豫科練外史<1>』教育図書研究会、1984年、p.82)

青年将校運動の原点となった「桜会」結成(昭和5年9月末)
橋本欣五郎中佐:参謀本部第二部第四班(ロシア班)
「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず」

桜会趣意書:塾々(つらつら)帝国の現状を見るに・・・高級為政者の悖徳(はいとく)行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家・華族、国家の将来を思わず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、縻爛(びらん)文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保存主義等々邦家のため寔(まこと)に寒心に堪へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき事責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく・・(秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<上>』より引用)

ガンジーのダンディ行進(1930年3月)
3月12日マハトマ・ガンジーが解放運動の大号令をかけて、インド国中を不服従闘争で満たし400kmの道を徒歩で行進しダンディの浜辺で海水から塩を作りイギリス独占の塩専売法を破った。(第二次不服従運動開始)

・インド「被抑圧階級第一回会議」開催(1930年8月8日 ナグプール)不可触民解放の父、アンベードカルはダンディ行進を批判しつつもインド独立(スワラージ)と不可触民自らの向上・自立を叫んだ。
(ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、光文社新書より)

軍閥と結託した政友会(犬養毅鳩山一郎ら)は、この軍縮条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろうとした。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定し、その責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおくものだった。
さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識派だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホども(加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線へと動き出した。

<「統帥権干犯」="魔法の杖"(司馬遼太郎氏、前述)>
軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろうと誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、口だしすれば干犯になる(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p46)

鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)政府が軍令部長の意見を無視し、杏軍令部長の意見に友して国防計画を決定したという其政治上の責任に付て疑を質したいと思うのであります。
軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓案を決定する閣議開催の前に当って、軍令部長を呼んで之に同意を求めたと云う其事実から云うのであリます。・・・陸海軍統帥の大権は天皇の惟幄(いあく。幕)に依って行われて、それには(海軍の)軍令部長或は(陸軍の)参謀総長が参画をLて、国家の統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而してそれには内閣が輔弼の責任に任ずる。
即ち一般の政務之に対する統治の大権に付ては内閣が責任を持ちますけれども、軍の統制に閑しての輔弼(ほひつ。助言)機関は内閣ではなくて軍令部長又は参謀総長が直接の輔弼の機関であると云うことは、今日では異論がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたということは、洵に大胆な措置と言わなくてはならない。
国防計画を立てると云うことは、軍令部長又は参謀総長と云う直接の輔弼の機関が茲(ここ)にあるのである。
統帥権の作用に付て直接の機関が茲にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責任の無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、之を変更したと云うことは、全く乱暴であると言わなくてはならぬ。・・・(松本健一氏著『評伝 斎藤隆夫』、p238より引用)

満州への定住者19万人(昭和5年発行、馬郡健太郎著『大支那案内』)
牧口常三郎創価教育学会を発足させた(1930年、昭和5年)。
同時に刊行した『創価教育学体系』(全4巻)の第一巻には柳田國男新渡戸稲造らが序文を寄せ、創価教育学支援会のメンバーだった犬養毅(政友会総裁)が題字を揮毫した。


牧口:「所詮宗教革命によって心の根底から立て直さなければ、一切人事の混乱は永久に治すべからず」。(島田裕巳氏著作『創価学会新潮新書、pp.31-32)

・台湾、霧社事件(1930年、昭和5年10月)
高砂族の抗日暴動。
日本軍が抗日派の約500人を大量虐殺した。
柳本通彦氏著『台湾・霧社に生きる』(現代書館)などを参照)

中国国民党は、国民会議において、基本的外国政策を決定し、その中で関税権の回収、治外法権の回収、最終的には租借地や鉄道など全てを回収することを謳った。(昭和6年5月)


★政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。
(首相:斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎 (S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)-->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21))

※ 昭和7年(1932)から11年(1936)にかけて、非政党エリートの力は、信用を失った政党の政権復帰を阻むことができるほど強大になっていた。
 政党は相対立するエリートの主張や彼らの野心の調整機関として機能できなくなり、権力は官僚と軍部の手に急速に移っていったのである。
しかし、その結果、今度は調整者不在下で生じる軍部や官僚の内部での不和や分裂そのものが、内閣の一貫した政策の立案やその履行上の重大な妨げとなってきた。(ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社

◇当時の資本主義日本の状況◇

 在野の経済評論家高橋亀吉は、『資本主義日本の現在の流れとその帰趨』(昭和4年1月号、「中央公論」に掲載)で当時の資本主義日本の腐敗堕落を分析して、その流れの行く先を鋭く指摘した。
以下一部を抜粋するが、当時の政界財界の大デタラメの様子がよくわかる。
しかも70年経た現在と酷似していることに注目。
さて、いまわが資本主義の現状をみるに、大略、次の四点を結目として、その生産力は多かれ少なかれ萎縮し、あるいは退歩しつつあることを発見する。

(1)営利行為の反生産化
(2)資本権力の反生産化
(3)資本家階級による資本の食い潰し
(4)資本家階級の腐敗堕落
いったい、資本主義制度の原動力たる営利行為は、はじめ、生産力の増進というベルトを通じてつねに働らいていたものであった。・・・しかるに、わが資本主義のようやく成熟するや、資本家は、生産力増進というがごとき努力を要するベルトによる代わりに、あるいは資本力による独占、あるいは政治的諸特権等、楽に金儲けのできる他のベルトを利用して、その営利行為を逞うするにいたった。
・・・しからば、いうところの政治的特権に出る営利行為の追求とは、そもそもいかなる方法による営利行為であるか。
試みに、その重なる手段を例示せばじつに左(注:原文は縦書き)のごときものがある。

(イ)保護関税の引き上げによる利得。
(ロ)「国家事業」その他の名によって補助金を得ることによる利得。
(ハ)「財界救済」ないしは「国家事業」救済等の名による利得。
(ニ)鉄道、鉱山、水力電気、電気供給路線、ガス等の特許、国有土地および林野の払い下げ、国営事業の請負、用地買上げ、等々による「利権」ないし「特権」による利得。
(ホ)国産品奨励その他の名により、高価にて政府買上げの特約による利得。(ヘ)低金利資金貸下げの名による利得。
(ト)預金部資金貸付けの名による同資金食荒らしによる利得。
(チ)特種銀行の貸出という名による資金の濫用による利得。
(リ)米価調節その他による利得。
(ヌ)税金免除、脱税看過、課税軽減、その他による利得。
その他、細かな点をあげれば際限もない。
右の中、多くは説明なくともその意味を理解していただくに難くないと思うが、・・・(ハ)についてはたんに最近のことのみをあげるも、震災手形関係二億七百万円、台湾銀行および日銀特融関係七億円、という巨額を国民の負担で貸し付け(事実においてはその過半をくれてやったわけ)、なお、この外にも預金部の金数千万円が同様に濫費せられ、・・・(ホ)の代表的のものとしては、わが兵器、造艦、その他の軍需品 、国有鉄道の車両、機関車等の注文のごときである。
(ヘ)および(ト)にいたっては政界の「伏魔殿」として有名であって、・・・(チ)に至っては、台湾、朝鮮両銀行の大不始末が何よりも雄弁であるが、このほか、多少の程度の差はあるが、他の特種銀行も同じく食い荒らされている。
たとえば坪十銭くらいで買った荒地数百町歩が、坪一円くらいの担保で某々銀行より貸し出され、それが選挙費になれりというがごとき、・・・また、地方農工銀行がつねに政争の具に供せられているごとき、いずれもその片鱗である。
・・・以上のごとく、資本主義そのものは、その営利行程その他において、その生産力の抑圧、減耗、退化をもたらしつつある。
その結果はいうまでもなく資本主義的発展の行き詰まりであり、その衰弱であり、大衆の生活難加重であり、資本主義に対する積極的否定運動の勃興である。
・・・(-->この風潮は昭和の初め頃の資本主義の否定・修正から社会主義運動の発展につながっていった)。

◇政界財界腐敗への痛烈な反応と軍部の台頭◇

浜口雄幸首相が凶弾に倒れる。(1930年、昭和5年11月14日-->昭和6年死亡)
浜口雄幸首相は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和5年4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印し右翼や野党(政友会)に「統帥権干犯」として糾弾されていた。
以後昭和史は滅亡に向かう。
北一輝の扇動、佐郷屋留雄の凶行)

北一輝日本改造法案大綱』(大正8年刊)より「国民は生活不安に襲われており、西欧諸国の破壊の実例に学ぼうとしている。
財政・政治・軍事権力を握っている者は、皇権にかくれてその不正な利益を維持しようと努力している。
われわれは全国民の大同団結を実現して、天皇にその大権の発動を求め、天皇を奉じて国家改造の根底を完成しなければならぬ」。

・民間右翼は、政党政治打倒をかかげ、軍部独裁政権こそが日本の舵取りにふさわしいと主張するようになった。

 

 

昭和6年(1931年)
満州事変(1931年、昭和6年9月18日~昭和8年5月塘沽(タンクー)停戦協定)("毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争")

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日本の新聞は一度だって戦争を未然に防いだことはなかった。
事実上戦争の推進役でしかなかったわけで、いまも本質的には変わっていない。
それはなぜなのかと自問したほうがいい。
報道企業を単に主観的な社会運動的側面から見るだけでなく、市場原理のなかでの狡猾な営利企業という実相からも見ていかないと。
前者はもともと幻想だったのですが、きょうびはその幻想や矜持も薄れて、営利性がとてもつよくなっています。
そうした営利指向も権力ヘの批判カを削ぎ、戦争めく風景に鈍感になることとつながっている。
辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、p.157)

 

※柳条湖(りゅうじょうこ)事件:1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分、奉天郊外の柳条湖で関東軍の指揮下にある独立守備隊の将校が満鉄線を爆破。
これを中国軍(張学良)の攻撃と詐称し、板垣は独断で独立守備隊第二大隊と第二十九連隊(川島正大尉、河本末守中尉)に、北大営の中国軍と奉天城を攻撃するように命じた。
(田中隆吉はS46.2月の東京裁判にむけてのウールワースの非公式尋問において、この事件が関東軍の仕業であることを明言した。しかし正式な尋問においては明言を避けた)。

満州国独立承認、日満議定書締結。
※この満州事変は日本の破滅への途における画期的転機だった。
首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、次級参謀石原莞爾中佐
(陸軍参謀本部作戦部長建川美次は黙認した)

※錦州(きんしゅう)爆撃:石原莞爾の独断による錦州張学良軍爆撃--->国際連盟に対する挑戦。(1931年、昭和6年10月8日)

※この事件頃より軍部にファシズムが台頭。
中央の命令を無視した関東軍の動きと、それに呼応した朝鮮軍(司令官林銑十郎中将)の動きに対して、時の首相、若槻礼次郎やその他の閣僚はただただ驚くばかりであった。
しかも所要の戦費の追認までしたのであった(責任者たちの厳罰はなかった)。
満州事変は政党政治にもとづく責任内閣制も幣原の国際協調政策も一気に吹き飛ばしてしまった。

※民間右翼と陸軍の将校たちが一気に結びついた。
●軍部によるクー・デタ計画(昭和6年(1931年)、三月事件、十月事件)
とくに十月事件は、民間右翼(大川周明北一輝井上日召ら)と陸海軍青年将校・中堅将校が図った大掛かりなクー・デタ(未遂)事件。
これらの首謀者(「桜会」=橋本欽五郎ら)は軽い判決で、事件そのものは闇に葬り去られた。(北一輝国家社会主義者:「資本家と政治家に対決する兵士と農民の結合」)

 
「三月事件は、小磯(国昭・陸軍省軍務局長)、建川(美次・参謀本部第二部長)、二宮(治重・参謀次長)、橋本(欣五郎・中佐)、重藤(千秋・中佐)など陸軍の一部が、宇垣(一成)陸相を担いで政権を奪取するために企てた陰謀でした」。
また同事件に民間から呼応した人物として右翼の大川周明の役割も強調した。(東京裁判にむけてのサケットによる木戸幸一への尋問より)(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.123)

 

中国共産党は1931年(昭和6年)11月7日、江西省瑞金で第一会全国ソビエト代表者大会を開いて、中華ソビエト共和国臨時政府を成立させた。(中国共産党蒋介石の対立激化)。
毛沢東はモスクワにより首長に任命され「中央執行委員会首席」という肩書きを与えた。
但し紅軍のトップは朱徳だった。
さらに上海から周恩来が党書記として赴任し最高権力を与えられた。
周恩来はモスクワで訓練されたプロ集団を使って、卓越した行政能力と粛清という恐怖のもとで共産党による統治を確立した。
ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.180-185)


★ 若槻内閣総辞職昭和6年(1931年)12月11日)
 若槻内閣総辞職は、浜口雄幸幣原喜重郎的政策、つまりは国際連盟ワシントン条約的国際秩序に対する協調政策が、完全に歴史の舞台から姿を消したことを意味した。--->挙国一致的連立内閣構想--->大政翼賛へ。
福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

★ 犬養毅内閣(昭和6年12月)は発足と同時に金輸出再禁止(大蔵大臣、高橋是清)を行った。
浜口雄幸井上準之助の二年半にわたる苦労は水の泡と消えた。
そしてこれ以後の日本経済は果てしないインフレへと転げ込んでいった。
犬養毅内閣はまた、戦前最後の政党内閣となってしまった。
「憲政の神様」 が幕引役とは、まことに歴史の皮肉としかいいようがない。(5・15事件:海軍将校を中心とするクー・デタ未遂事件。昭和7年5月15日)