❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】
(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html
第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」
※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞
プロローグ
今回は文字数の関係で省略します。
❝USA第51州の実態(009)昭和7年❞
❝ 目次
昭和7年(1932年)
※『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)江下武二、北川丞、作江伊之助。
「血盟団事件」1932年 ( 昭和 7年)2月から3月にかけて発生した連続 テロ (政治 暗殺 )事件。
2.団琢磨(だんたくま。三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)。
★ 浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって政党 が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。
・リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)。
※青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅薄さがその持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。
※昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、"統帥国家"を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
★五・一五事件前後の”日本の変調のはじまり”について
★ 民政党の経済政策の破綻。政友会の大陸積極策とその帰結としての満州事変。
※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な専門知識を保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越性が、大幅に認められるに至った点で特徴的である。この結果軍部の政治支配の増大をもたらし、ひいては日本軍国主義の確立をもたらした。
※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。
日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。
そのためには、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしなければならなかった。
結局のところ陸軍も政党もその政策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
★【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】
(昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)
★【官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来】
☆国民性・国民意識:「やっぱり戦争がないとダメだ、軍部頼むよ」
「満州には日本の未来がある。一旗あげるチャンスがある」
<軍部の独善主義とその暴走>
★【人間の屑と国賊の時代】
★【戦争は起きる】
斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)
❝USA第51州の実態(009)昭和7年❞
本文
❝●桜田門事件:李奉昌(りほうしょう、リポンチャン)が桜田門外の警視庁正面玄関付近で昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げた。
[朝鮮人李奉昌は天皇暗殺を計画,陸軍観兵式から戻る天皇の行列を警視庁前で待ちうけて手投弾を投じたが,宮内大臣の馬車付近に落下,負傷者はなかった。宮内大臣の馬車を天皇のものと誤認した結果であった。李は直ちに捕らえられ,9月30日死刑の判決をへて10月10日処刑された。犬養内閣は即日総辞職を決めたが,天皇の優諚(ゆうじょう)で全員留任。]❞
日本軍の謀略で田中隆吉中佐と愛人川島芳子が組んで仕掛けた事変。
(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p92)この軍事衝突は日中関係において必然だった。
中国側の抗日意識・ナショナリズムは、遅かれ早かれ、日本と対決せざるをえないものだったし、日本側もまた、大陸から手を引く意思がない以上、それをさけることができなかったのである。
投入戦力約5万人、戦死者3000人余りに達したが、日本側が得たものは何もなかった。
英国は徐々に中国支援へと傾いていった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
※『肉弾三勇士』(1932年、昭和7年2月22日)江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵は、爆薬を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒を持って上海近郊の中国防護線の鉄条網に突っ込み、このため陸軍の進軍が可能となった。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)これは後に「散華」とか「軍神」という歪められた実質のないまやかしの美辞麗句と共に、日本人全員が見習うべき国への犠牲の最高の模範という美談・武勇談として軍に大いに利用され、日本人の心に刻み込まれた。(ただし、彼らの命は導火線の長さをわざと短くしたことで、意図的に犠牲にされていた)。
注釈:「散華」(さんげ)とは四箇法要という複雑な仏教法義の一部として、仏を賞賛する意味で華をまき散らす事を指す。
軍はこの語の意味を本来の意味とは全く懸け離れたものに変え、戦死を「(桜の)花のように散る」ことであると美化するために利用したのである。(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
※浜口、井上は民生党内閣において通貨価値守護の義務感を捨てず、不評だった緊縮財政を敢えて推進していた。
これはまた肥大する 軍事予算を圧縮する意図もあった。
<井上準之助蔵相の政策(緊縮財政、金解禁など)>
イ.昭和5年度以降、一般会計で新規公債を計上しない。
ロ.特別会計での新規公債計上を半分以下にする。
ハ.ドイツ賠償金600万円以上を全て国債償還に充当。
ニ.「金解禁」(金本位制への復帰)
これまでの金輸出禁止(金本位制度一時停止(大正6年~昭和5年))を解除し金本位制への復帰。
(緊縮財政、消費節約、輸入抑制と一体で施行)。
この「金解禁」は当時の日本にとっては円を大幅に切り上げることになるが、国内経済の体質改善のために敢えて行った。
これはまた国内不採算企業に市場からの撤退を強いた。
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※日本の「グローバル化」。
結局、このために日本は1929年に始まった世界恐慌に巻き込まれ、日本は昭和恐慌となり大不況に見舞われた。
大胆な構造改革は”凶”となった。
※関東大震災後、復旧の為に外国からたくさんの物資を購入したため、海外貯蓄の金が減少した。
すると日本の金の価値が徐々に下落し、大正12年の49$50/100円が大正13年末には38$50/100円と円が下落してしまった。
この為替相場の激落で国民は金輸出禁止の影響を痛感した。
※レート換算で円を払うより金の現物支払いが有利
※当時の緊満財政、公債発行、国民の浪費状態、輸入超過状態、物価高騰、高い生活費、為替相場低落の状態で金輸出禁止を解除(金解禁=金本位制への復帰)すると、ますます輸入超過が助長され、外貨準備高は底をつき、日本は激しい財政破綻を招来する恐れあり。(金本位制は、この当時のグローバルスタンダードだった)
ホ.財政の整理緊縮、国民の消費節約、勤倹力行の奨励。
2.団琢磨(だんたくま、三井合名理事長)を狙撃(1932年、昭和7年3月5日)金融恐慌時代には必ず自国通貨を守ろうという運動がある。
しかしその裏で秘かに自国通貨を売りまくって、為替差益を稼ごうとする卑しい人間が存在する。
それは概ね裕福な財閥、大富豪、上流階級の人間だろう。
※四元義隆(よつもとよしたか。当時東大生、三幸建設工業社長)
「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、(と決起した)ということだった」。
★ 浜口雄幸、井上準之助の死後、軍部の横暴と圧力(テロの恐怖)によって政党が実権を失い、日本は転落の一途を辿った。
日本政府と関東軍(土肥原賢二ら)によりごり押し独立(1932年、昭和7年3月1日)。
中華民国からの独立、五族協和・王道楽土(なんのこっちゃ?)を謳う。
東京では(二葉会-->)一夕会系の中堅幕僚らの支持。
昭和9年愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)は皇帝になり、帝政に改組された。
(--->「満州は日本の生命線」)
※ 満州国建国は昭和陸軍の軍人たちに軍事力が人造国家をつくりあげることが可能だという錯覚を与えた。
その錯覚を 「理想」と考えていたわけである。
これが明治期の軍人たちとは根本から異なる心理を生んだ。
つまり軍事は国家の威信と安寧のために存在するのではなく、他国を植民地支配する有力な武器と信じたのである。
その対象に一貫して中国を選んだのである。
(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)
※ 因に日満と中国国民党の間では、昭和8年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定(関東軍と中国軍の間で締結、満州国の存在を黙認させる協定)から昭和12年7月の廬溝橋(ろこうきょう)事件までの4年2か月の間、一切の戦闘行為はなかった。
※ たしかに当時の満州国は発展しつつあった。
だがその手法は、満州協和会といった民間日本人や、満州人、中国人、在満朝鮮人らを徹底して排除した、陸軍統制派と新官僚とによってなされたものだった。
つまり、<二キ三スケ>という無知無能連中(東条英機、満州国総務長官星野直樹、南満州鉄道総裁松岡洋右、日本産業鮎川義介、産業部長岸信介)に牛耳られていた。
残念ながらこの盤石になりつつあった満州は、石原莞爾の目指したものではなかった。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
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イギリス帝国がその自治領や植民地を特恵待遇にして経済を守るという、植民地ブロック経済(スターリング・ブロック)を採用。(次いでフランス、アメリカも同様の措置をとった)
・リットン調査団の満州踏査(昭和7年2月~8月、10月に報告)
○柳条湖事件は日本の戦闘行為を正当化しない。
○満州国は現地民の自発的建国運動によって樹立されたものではない。
<解決策提示>
- 日中双方の利益と両立すること
- シビエトの利益に対する考慮が払われていること
- 現存の、諸外国との条約との一致
- 満州における日本の利益の承認
- 日中両国間における新条約関係の成立
- 将来における紛争解決への有効な規定
- 満州の自治
- 内治および防衛のための保障
- 日中両国間の経済提携の促進
- 中国の近代化のための国際的協力
(子細にみれば、日本に不利なものでは、けっしてない)
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海軍士官と陸軍士官学校候補生、それに橘孝三郎の農本主義団体が加わっての凶行。
彼等のスローガンは政党政治打倒、満州国の承認、軍部独裁国家樹立といった点にあったが、この事件は図らずも国民の同情を集めた。
これにより政党政治(内閣)の終焉が明らかとなった。(統帥権の干犯をたてに民政党内閣を攻撃し、それによって政党政治の自滅へと道を開いた犬養は、みずから軍人の独走の前に身をさらさなければならなくなってしまった)。
橘孝三郎を除く全ての犯人は昭和15年(1940年)末までに釈放された。
※橘孝三郎:昭和5年(1930年)に「愛郷塾(自覚的農村勤労学校)愛郷塾」を創立したトルストイ(農民生活の気高さを賛美したロシア貴族)信奉者。
<以下(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.59-60)より>
第一次大戦によって西洋文明の崩壊がはっきりした、と橘は語った。
「われわれはナショナリズムに回帰し、完璧な国家社会を要望する国家社会主義的計画経済原理に立って、日本を再編成しなければならないのだ」、と彼は説いた。「マルクス主義が救済策を提供することはあり得ない。マルクスが考察したのは工業化ずみの国家であるのに反して、日本は小独立農民の国家である。農民を犠牲にして工業によって豊かになったイギリスを模倣するという誤ちを近代日本はおかしてしまったが、日本は農民の国なのであって、金本位制で利潤を都市に流出する資本主義は、その農民の国を破壊しつつあるのだ」。
その当時の事態をこと細かく説明するのはむずかしくないが、救済策ということになると、このトルストイの旧使徒は理想に燃えて幻影を追ったのであった。
「日本はその個人主義的な産業文明を一掃して、ふたたび独立自営農民の国にならなければならない」と彼は語った。
「対外進出と国内革新は同時に進められねばならない。満州の馬賊は大した問題ではない。日本が打倒しなければならないのは、アメリカと国際連盟なのだ。・・・国民は金権政治家の道具と化した腐敗した議会から解放されなければならない。・・・われわれが求めているのは、自治農村共同体社会にもとづいた代議組織である」。
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首謀者古賀中尉:「五・一五事件は、犬養首相と一人の警官の死のほかに、いったい何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変った。 国賊と呼ばれた小沼正義や菱沼五郎らも、国士と呼ばれるに至った。この逆転の流れがなければ、二・二六事件は起らなかったのではないか、と私は思っている。私たちの抱いた信念はたしかに歴史の流れに転機をもたらした」(立花隆氏「日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件」文藝春秋 2002;9月特別号:433ページより引用)
※青年将校運動は浅薄であると同時に狂暴であり、その浅薄さがその持つよこしまな力をつつみ隠していたのである。
街頭演説に訴える精神とは違った色に染められてはいるが、質的には変わるところのない、未熟で偏狭な精神の持ち主である青年将校は、陸海空軍を通じて蔓延していた精神構造の典型であった。(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、pp.45-46)
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※以下、陸軍参謀本部刊行『統帥参考』より
(以下、司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より孫引き)
「統帥権」: ・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ。
従テ、統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。
議会ハ軍ノ統帥・指揮並之ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。
「非常大権」: 兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限リ二於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得ルハ憲法第 三十一條ノ認ムル所ナリ。
※昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領』『統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、"統帥国家"を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。
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★五・一五事件前後の”日本の変調のはじまり”について「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。
にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こった。
マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方な い」というような論調が出来上がっていった。
日本国中に一種異様な空気が生まれていったのである。
どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。
第一次世界大戦の戦後恐慌(大正9年。1920年3月)で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払いを停止する銀行も現れていた。
追い討ちをかけるように、大正12年(1923年)には関東大震災が襲う。
国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。
昭和に入ると、 世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
「五・一五事件」の前年には満州事変(1931年。昭和6年)が起きていた。
関東軍は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。
中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。
昭和八年には国際連盟を脱退してしまう……。
だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民は快哉(かいさい。快い)を叫んでいたのである。
戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頃の日本を称して「変調をきたしていった時代」と評していた。
確かに、後世の我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。
天皇を国家の機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのである。
しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として捉えられていた。
天皇自身が、側近に「美濃部の理論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。
しかし、それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたのである。
天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議された。
文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。
続いて文部省は、それに代わって「国体明徽論(こくたいめいちょうろん)」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。
「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家がある」とする説である。(さらに「国体明徽論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった)
この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台頭してきたのであった。
「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。
天皇自身 が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだのである。
「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、 pp.57-60より)
★ 民政党の経済政策の破綻。
政友会の大陸積極策とその帰結としての満州事変。
政党政治の帰趨はもとより、内外の情勢の逼迫が政党政治の存続を困難にしていた(政党政治の自己崩壊)。
※ 1932年(昭和7年)以降の数年間は、国策の遂行に必要な専門知識を保持すると自負する官僚と軍部エリートの優越性が、大幅に認められるに至った点で特徴的である。
この結果軍部の政治支配の増大をもたらし、ひいては日本軍国主義の確立をもたらした。
<大衆の政治参加の問題:官僚の画策>
1.鎮圧による支配(内務省警保局)。
2.既存の選挙過程の「浄化」。
地方の名望家と政党の連携を弱体化させるような施策。
(「選挙粛清運動」、後藤文夫、丸山鶴吉ら)。
3.政治的異端分子を「粛清」選挙運動に吸収。
敵対する側の一方(社会大衆党)を支持吸収して既成 政党の弱体化を図った。
※ 軍部も政党も1930年代には共通のジレンマに直面した。
日本の安全保障に不可欠と判断される軍事的、経済的政策を実行するためには、全国の資源を軍事と重工業に集中しなければならなかった。
そのためには、陸軍が非常に関心をもっていた貧困化した農民の利益や、政党が多くの場合その利害の代表であった地方の農業・商工業団体の利益を犠牲にしなければならなかった。
結局のところ陸軍も政党もその政策決定においては、国民の生活水準よりも国防の方を重視した。
この選択は1945年の不幸な結果をもたらしただけでなく、戦時中の国民生活に大きな影響を与えた。
それにもかかわらず、政党は支配集団の一員としての使命感から、一貫して軍事的膨脹主義を支持した。
政党のこのような政策は誤ちであり不賢明なものであったことは後に明らかになった。(ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社)
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風間委員長以下、中央地方の幹部は軒並み逮捕され共産党は事実上壊滅状態となった。(松村(M)はスパイだった)
[飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助、天野煕、高瀬正敬。愛媛県出身。Wikipedia]
【 昭和十年代は人間の顔をした悪魔が日本を支配した 】
【多くの国民は無知に埋没し、悪魔は国民を蹂躙した 】
★【軍部におけるファシズムの顕在化とその台頭】
(昭和陸軍には戦術はあっても、哲学も世界観も何一つなかった)
※ファシストが何よりも非であるのは、一部少数のものが暴力を行使して、国民多数の意思を蹂躙することにある。
※ファシズムとは社会学的な発想に基づく政治体制である。(福田和也氏)
ファシズムは社会を「束ねる」事を目指したことにおいて、ほぼデュケ ルムの問題意識と重なると云うことができるだろう。
[デュケルム(1858年4月15日 - 1917年11月15日)は、フランスの社会学者。オーギュスト・コント後に登場した代表的な総合社会学の提唱者であり、その学問的立場は、方法論的集団主義と呼ばれる。また社会学の他、教育学、哲学などの分野でも活躍した。Wikipedia ]
ファシズムの様々な 政策や運動行為、つまり国家意識の強調、人種的排他差別、指導者のカリスマ性の演出にはじまり、大きな儀式的なイベント、徹底した福祉政策、官僚性をはじめとする硬直した統治機構に対する攻撃、国民的なレジャー、 レクレーションの推進などのすべてが、戦争やナショナリズムの高揚という目的のために編成されたのではなく、むしろ拡散され、形骸化してしまった社会の求心性を高めるために構成されていると見るべきだろう。
ファシズムが成功したのは、第一次大戦において敗れたドイツや、王政が瓦解したスペイン、王政と議会とバチカンに政治権力が分散し、その分裂が大戦後昂進するばかりだったイタリアといった社会の枠組み(が)崩壊したり、激しい亀裂に見舞われた社会においてばかりであった。
(デュケルム(フランス社会学中興の祖)の考え。近代社会が大衆化するにしたがって社会がその求心力を失い、社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊しはじめるーーいわゆるアノミー(社会の無規範や無秩序)現象が起こる。デュケルムはこうして拡散した社会を改めて「凝集」する事を社会学の任務とした。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋))❞
❝ ※日本政治研究会(時局新聞社)の見解
「日本ファシズムは、国家機関のファショ化の過程として進展しつつある。政党形態をとってゐるファシズム運動は、この国家機関のファショ化を側面から刺激するために動員されてゐるだけである。同じく官僚機構内部に地位を占めながら、かかるファショ化を急速に実現せんとする強硬派と、漸進的にスローモーションで実現してゆく漸進派とのヘゲモニー(指導的、支配的な立場)争奪は、満州事変以後の政局をながれる主要潮流をなしてゐる。 そして後者が国家機関における主要支配勢力として政権を握り続けてゐる」。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.16)
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※労働運動と左翼および彼らの活動の源泉である民主主義の行き過ぎを弾圧するファシスト流の極端なナショナリズムは、米英両政府と産業界及び多くのエリートの見解ではファシズムは、一般には、むしろ好意的に見られていた。
ファシズムへの支持は直ちに表明された。
イタリアでファシスト政権が誕生し、それによって議会制度が速やかに崩壊させられ、労働運動及び野党が暴力的に弾圧されると、ヘンリー・フレッチャー大使はその政権誕生を称える見解を表明し、以後はそれがイタリアを始めとする地域に対するアメリカの政策を導く前提となった。
イタリアは明白な選択を迫られている、と彼は国務省宛に書いた。
「ムッソリーニとファシズム」か、「ジオリッティと社会主義」か。
ジオリッティはイタリアのリベラリズムの指導的人物だった。
10年後の1937年にも、国務省はまだファシズムを中道勢力と見なし続け、彼らが「成功しなければ、今度は幻滅した中流階級に後押しされて、大衆が再び左翼に目を向けるだろう」と考えていたのだ。
同年、イタリア駐在の米大使ウイリアム・フィリップスは「大衆の置かれた状況を改善しようとするムッソリーニの努力にいたく感動し」、ファシストの見解に賛成すべき「多くの証拠」を見出し、「国民の福利がその主たる目的である限り、彼らは真の民主主義を体現している」と述べた。
フィリップスは、ムッソリーニの実績は「驚異的で、常に人を驚かし続ける」と考え、「人間としての偉大な資質」を称えた。国務省はそれに強く賛同し、やはりムッソリーニがエチオピアで成し遂げた「偉大な」功績を得、ファシズムが「混乱状態に秩序を取り戻し、放埓さに規律を与え、破綻に解決策を見出した」と賞賛した。
1939年にも、ローズヴェルトはイタリアのファシズムを「まだ実験的な段階にあるが、世界にとってきわめて重要」と見ていた。
1938年に、ローズヴェルト(ルーズベルト。アメリカ合衆国第32代大統領)とその側近サムナー・ウェルズ(アメリカ合衆国国務次官)は、チェコスロヴアキアを解体したヒトラーのミュンヘン協定を承認した。
前述したように、ウェルズはこの協定が「正義と法に基づいた新たな世界秩序を、諸国が打ち立てる機会を提供した」と感じていた。
ナチの中道派が主導的な役割を演じる世界である。
1941年4月、ジョージ・ケナン(アメリカ合衆国国防省政策企画部本部長)はベルリンの大使館からこう書き送った。
ドイツの指導者たちは「自国の支配下で他民族が苦しむのを見ること」を望んではいず、「新たな臣民が彼らの保護下で満足しているかどうかを気遣」って「重大な妥協」を図り、好ましい結果を生み出している、と。
産業界も、ヨーロッパのファシズに関しては非常な熱意を示した。
ファシスト政権下のイタリアは投資で沸きかえり、「イタリア人は自ら脱イタリア化している」と、フォーチュン誌は1934年に断言した。
ヒトラ-が頭角を現した後、ドイツでも似たような理由から投資ブームが起こった
企業活動に相応しい安定した情勢が生まれ、「大衆」の脅威は封じ込められた。
1939年に戦争が勃発するまで、イギリスはそれに輪をかけてヒトラ-を支持していた、とスコット・ニュ-トンは書いている。
それはイギリスとドイツの工業と商業 及び金融の提携関係に深く根ざした理由からであり、力を増す民衆の民主主義的な圧力を前にして、「イギリスの支配者層がとった自衛策」だった。
(ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か』鈴木主税訳、集英社新書、pp.98-99)
★【官僚化した軍部の暴走の時代、国家が命を翻弄する時代の再来】
☆国民性・国民意識:「やっぱり戦争がないとダメだ、軍部頼むよ」 「満州には日本の未来がある。一旗あげるチャンスがある」
<軍部の独善主義とその暴走>
※ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。
[陸軍幼年学校。通称・略称は陸幼・幼年校・幼年学校。]
これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
(注釈)幼年学校→陸軍幼年学校陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリ-卜教育機関。満13歳から15歳までの三年教育。年齢的には中学に相当。前身は1870年(明治3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。1872年(明治5年)、陸軍幼年学校に改称。東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。 (昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ、p.22)
★【人間の屑と国賊の時代】
人間の屑とは、命といっしょに個人の自由を言われるままに国家に差し出してしまう輩である。
国賊とは、勝ち目のない戦いに国と民を駆り立てる壮士風の愚者にほかならない。(丸山健二氏著『虹よ、冒涜の虹よ<下>』新潮文庫、p46)昭和10年代は人間の屑と国賊が日本にはびこった時代だったといっても言い過ぎにはならないだろう。
★【戦争は起きる】
誰しも戦争には反対のはずである。
だが、戦争は起きる。
現に、今も世界のあちこちで起こっている。
日本もまた戦争という魔物に呑みこまれないともかぎらない。
そのときは必ず、戦争を合理化する人間がまず現れる。
それが大きな渦となったとき、もはや抗す術はなくなってしまう。 (辺見じゅん『戦場から届いた遺書』文春文庫、p13)
★日中戦争の特質:中国に対する差別意識この戦争のもう一つの特徴は、日本の中国に対する特別な意識、ある意味では差別意識に基づいていたと言えます。
中国人に対しては、これを殺したって構わない。
どうしたって構わないという感覚を持っていた。
満州事変の経験に鑑みて、日本は対支那軍の戦闘法の研究を始めます。
それまで日本陸軍は主たる敵はソ連ですから、対ソ戦の研究をし、対ソ戦の訓練をしていたのですが、満州事変で中国軍と戦うことになったので、改めて中国軍との戦いはどういうふうにやったらいいかという研究を陸軍の学校の一つである歩兵学校でやったわけですが、その教訓を『対支那軍戦闘法ノ研究』というかたちで昭和8年(1933年)にまとめています。
その中にはいろいろなことが書いてありますが、とくに重要なのは、「捕虜の処置」という項目です。
そこには「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必スシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラサルノミナラス特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書いてあります。
そこには、つまり中国人の人権を認めない、非常に差別的な意識がここに表れていると言えます。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.68-69)
★歴代首相
斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)
悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう。 桜の梢で「特攻」を送別する女学生。微かな富士の忍野八海。 2023.4.16から「note」を始めました。 Myブログ「都はるみ研究所」は5年前から毎日更新中です。 twitter「絹声七色」は5個ログイン中です。