kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(010)昭和8~9年(1933~4年)❞

 

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞


(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」 www.ibaraisikai.or.jp

※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。

学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ

 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)
昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

 

 

❝USA第51州の実態(010)昭和8~9年(1933~4年)❞

❝ 目次

昭和8年(1933年)
★歴代首相
● F.D.ルーズベルトアメリカ第32代大統領に就任(1933年3月4日)
ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立(6月14日)●中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
・ドイツとスウェーデンで強制断種法が制定された。(1934年)
・「滝川事件」(1933年、昭和8年
・挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴

  • 満州国」否認される。日本、国際連盟を脱退(1933年、昭和8年2月24日)。日本は国際的な孤立を深めていった。
    昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。
    ・「ゴー・ストップ事件」:大阪府警(粟屋仙吉大阪府警警察部長=S18.7より広島市長・原爆で死亡)と陸軍の喧嘩:国民が軍にたてつくことができた最後の事件
  • 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)
    ・救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著『幻のクーデ
    ター』参照)
    満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧により地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。

★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀部)、建物 こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。

<軍人どもの内閣諸機関への介入>
・陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)❞

 

 

本文

❝★歴代首相
斎藤実(S7~9)-->岡田啓介(S9~11)-->広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)--> 米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)

● F.D.ルーズベルトアメリカ第32代大統領に就任(1933年3月4日)
 1. 全国銀行休業の上緊急銀行救済法案提出
2. 失業保険、高齢者福祉の充実
 3. 農産物の生産調整
 4. 様々な公共事業の推進(TVAなど)
5. 預金者保護
(6. サウジアラビアの石油漁り(筆者私論))

ヒトラーの台頭(1933年1月~):ナチ党の一党独裁体制確立(6月14日)
※(シモーヌ・ヴェイユの言葉によると)ヒトラーの台頭当時、ナ チスは「必要とあらば労働者の組織的な破壊をもためらわぬ大資本の手中に」、社会民主党は「支配階級の国家機関と癒着した官僚制の手中に」、肝腎の共産党は「外国(ソ連)の国家官僚組織の手中に」あって労働者たちは孤立無援だった。(シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』の解説(富原眞弓)より、岩波文庫、p.177)
1933年1月30日:軍部クーデタの恐れのため、ブロンベルク将軍を国防相に任命して鎮圧を図るが、ヒンデンブルク大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命し、右翼連立政権が成立する。
2月 1日:ヒトラー首相の強要で、大統領は国会を解散する。
広範囲な全権委任獲得を求め、多数を得るために総選挙を選択。
2月 4日:出版と言論の自由を制限する取締法の通過。
2月24日:ナチス突撃隊が共産党本部を襲撃して占拠。
2月27日:国会議事堂の炎上(オランダ人共産党貞のルッペを逮捕するとともに、これを機会に共産党議員の逮捕)。
2月28日:事実上の戒厳令閣議で決定する。
3月 5日:ナチス党が選挙で第一党になる。
3月23日:帝国議会で全権委任法(受権法)が成立し翌日に発効。
4月 1日:ユダヤ人排斥連動の実施。
「専門的官職再興法」(ユダヤ人とマルクス主義者を官職から排除できる法律)やナチ党中央委員会(ユリウス・シュトライヒャー)を使った徹底的弾圧。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房も参照)
5月10日:ナチス政府が社会民主党の資産没収。
ゲッベルス(ナチ党政権の国民啓蒙・宣伝大臣)は非ドイツ的な書籍の焚書を扇動。
7月14日:政党新設禁止法によりナチス党の独裁樹立。
また、国民投票に関しての法律の実施。
「遺伝疾患予防法」制定。
10月14日:国際連盟ジュネーブ軍縮から脱退の声明。
11月12日:国際連盟脱退の国民投票
95%が政権支持。
12月 5日:補足命令で患者の遺伝疾患やアルコール中毒などの当局への届け出義務が発生した。
12月 7日:労働組合の解散命令。
12月28日:学校での挨拶は「ハイル・ヒトラー」と規定。
1934年4月20日:ハインリヒ・ヒムラー率いる政治警察は中央集権化して絶大な権力をふるっており、ついにプロイセンゲシュタポの長官の地位までも手中にした(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.38)[ゲシュタポは反 ナチス 運動の取り締まりを目的として創設された。 ナチス‐ドイツの国家 秘密警察 。]
6月30日:「長いナイフの夜」、SA突撃隊員の虐殺と粛清。
[突撃隊( 略号:SA)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の準軍事組織である。制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた。]
8月 2日1934年(昭和9年):ヒンデンブルク大統領の死去。
国家元首法」の発効で ヒトラー首相は大統領を兼任して、合法的に総統に就任して独裁の完成。
8月19日:新国家元首への信任の国民投票で89%の賛成。
(以上の年表の主要部分は、藤原肇氏著『小泉純一郎と日本の病理』光文社、pp.156-157より)
※ニュールンベルク法制定(1935年9月)
”ドイツ人の血統とドイツ人の名誉を保護する法”
※「水晶の夜」(1938年[昭和13年]11月9日~10日):ユダヤ人に対する全国的なポグロム(襲撃)。
11月7日ポーランドユダヤ人ヘルシェル・グリュンスパンがパリのドイツ大使館の下級外交官エルンスト・フォン・ラートを撃った(グリュンスパンの両親がドイツから追放されたのが動機)のを機会に開始された。(ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』根岸隆夫訳、みすず書房、p.151)
※アドルフ・アイヒマン(元親衛隊(SS)中佐)
無思想で道化のような人間によってファシズムが行われたとき笑うしか対応の仕方がなかった。
ハンナ・アーレントイェルサレムアイヒマン』)
一度おこなわれ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、その事実が過去のこととなってしまってからも長く可能性として人類のもとにとどまる。これが人間のおこなうことの性格なのである。
*************
アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。
われわれの法律制度とわれわれの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。
ニュールンベルグ裁判で法廷に呼び出されたポーランド人看守の証言
子供を連れている女性はいつでも子供と一緒に焼き場に送り込まれた。
子供は労働力としての価値がなく、だから殺された。
母親たちも一緒に送られたのは、引き離せばパニックやヒステリーにつながりかねず、そうなると絶滅工程が減速する可能性があり、それを許容している余裕はなかったからだ。
母親たちも一緒に殺して、すべてが静かに滑らかに進むようにしたほうが無難だった。
子供は焼き場の外で親から引き離され、別々にガス室に送られた。
その時点ではなるべく多くの人を一度にガス室に詰めこむことがもっとも優先順位の高い事項だった。
親から引き離せばもっと多くの子供だけを別に詰めこむことが可能になったし、ガス室が満杯になったあとで大人たちの頭上の空間に子供を放りこむこともできた。
ガス室でのユダヤ人根絶の最盛期には、子供は最初にガス室に送ることなしに、焼き場の炉に、あるいは焼き場近くの墓穴に直接投げこむように、との命令が出されていた。(ライアル・ワトソン『ダーク・ネイチャー』旦敬介訳、筑摩書房、pp.397-398)
*************** 
<以下、クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より>
※ナチの典型的スローガン「パンがなけりゃ、法律なんてくそくらえだ」
ヒトラーの「優性至上主義」は障害者、病者を収容所に隔離、隔世することから始まり、果ては「ホロコースト」にまで至った。
(※当時の元リトアニア領事代理、杉原千畝(ちうね)は日本政府に反命しユダヤ人の国外脱出を助けた。帰国後彼は非難と左遷の憂き目に会い、名誉が回復されたのは、ほんの最近のことである)。
※フォス新聞より現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。
しかし、民衆のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。
貧困をなくすことはできないが、自由をなくすことは可能だ。
困窮を訴える声を消すことはできないが、報道を禁ずることは可能だ。
飢えをなくすことはできなくても、ユダヤ人を追放することは可だ。
・・・ドイツは世界を制覇するか、消え去るかだ。(クラウス・コルドン『ベルリン1933』酒寄進一訳、理論社より)
ヒトラーの脅迫的演説
・・・もしドイツ民族がわれらを見捨てるならば、天よ、われらを許したまえ。われらは、ドイツのために必要な道を進むであろう。(同上)
マルクス:「理論もそれが大衆の心をつかむやいなや、物質的な力になる」はファシズムを予告している)
※ナチ突撃隊に埓(らち)された監獄のなかで「・・・だが、最悪なのはそんなことじゃない。共産党社会民主党がいがみあっているのは知っているだろう。監獄の中でも、おなじ調子だったんだ。こうなった責任を、おたがいにかぶせあってあっていたんだ。悲惨な状況でなかったら、笑いがでていただろう。処刑台の下に来てまで、いっしょに死刑執行人と闘おうとせず、けんかをしているんだからな」(同上)
※ 1933年9月、ヒトラーはナチ党大会で、司令部衛生班に対して「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LAH)」という名称を正式に与えた。
さらに11月19日、LAHの隊員は帝国首相アドルフ・ヒトラーに無条件の特別な忠誠を誓った。
ここにおいてヒトラーはLAHをSS(親衛隊)帝国指導者からもナチ党からも切り離して直接自分の指揮下においただけでなく、これによって正規の国防軍と警察とは違う、いかなる法的根拠ももたない独立した軍事組織を創設した。(ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、pp.41-42)
ヒトラーによるSA(国家社会主義運動のための私設革命部隊で、褐色の
シャツを着た突撃隊(SA:Sturnabteilung))の粛清(1934年6月30日)
レーム事件:ナチ親衛隊によるSA指揮官エルンスト・レーム殺害など
(ジョージ H. ステイン『武装SS興亡史』吉本貴美子訳、学研、p.24)

 <ナチズムの社会主義的根源>
「ドイツは観念の世界においては、すべての社会主義的夢の最も信頼のおける代表者であり、現実の世界においては、最も高度に組織化された経済体制の最も有力な建築家であったからーー20世紀はわれわれのものである。いかなる形で戦争が終っても、われわれは代表的国民である。われわれの観念は人類の生活目的を決定するであろうーー世界史は現在、わが国においては人生の新しい偉大な理想を最終の勝利に押し進めているのに反し、同じときにイギリスにおいては、世界史的な原理が最終的に崩壊するというすばらしい光景を露呈しているのである」。
1914年にドイツに起った戦時経済は、「最初に実現した社会主義社会であって、その精神は社会主義的精神の最初の積極的な現われであり、単に漠然と要求された現われではない。戦争という緊急事態のもとで、ドイツの経済生活のなかに社会主義的理念が入り込み〔その組織は新しい精神と結びつき〕、そしてこのようにして、わが国の防衛が人類のために1914年の観念、ドイツ的組織の観念、すなわち国家主義社会主義の民族共同体(Volksgemeinschaft)を生み出したのである。われわれは真にそのことを注意していないが、国家と産業におけるわれわれの全政治的生活は高い段階に上っている。国家と経済は結びついて新しい統一体を形成しているのである。……官吏の仕事を特徴づける経済的責任感はいまやすべての私的活動(原文では企業者と農民の組織、労働組合)に広がつてゆく」。
経済生活の新ドイツ的協同組合組織は(プレンゲ教授は未完成であり、不完全であることを認めているが)、「この世で知られている国家の生命の最高の形態である」。
最初、プレンゲ教授はなお自由の理念と組織の理念とを調和させようと望んでいた。
もっともそれは主として全体に対する個人の完全でしかも自発的な服従によってではあるが。
けれどもこうした自由主義的観念の痕跡は、彼の書物からまもなく消え失せた。
1916年までに彼の心のなかには、社会主義と冷酷な政治的権力の結合が完全なものとなっていた。
戦争の終る少し前に、彼は"Die Glocke"という社会主義の新聞紙上において次のように同胞に訴えている。
社会主義はそれが組織化されるべきものであるから、権力政策でなくてはならぬという事実を確認する絶好の時期である。社会主義は権力を獲得しなければならない。社会主義は決して盲目的に権力を破壊してはならない。そして民族間の戦争の際に社会主義にとって最も重要にして緊急な問題は、必ずどういう民族がぬきんでて権力の座につくか、ということでなければならない。というのは、その民族が諸民族の組織の代表的な指導者だからである」。
そして彼はついにヒットラーの新秩序を正当化するに役立ったすべての観念を予言しているのである。
「組織である社会主義の観点からすれば、絶対的な民族自決権は、個人主義的な経済的無政府状態を意味しないか。個々の民族に対しその経済生活における完全な自己決定権を与えることは好ましいことか。首尾一貫した社会主義は歴史的に決まっている勢力の真の分配にしたがってのみ、民族に政治的な団結権を与えることができる」。(F・A・ハイエク『隷従への道』一谷藤一郎・英理子訳、東京創元社、pp.220-221)
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●中国「長征」のはじまり(1934年10月、8万人の行軍)
蒋介石は「抗日」より「反共」を優先。江西省南部を中心とする共産党地区にたいし、本格的な包囲掃討作戦を開始。
陸軍100万人、空軍200機の国民党の攻勢の前に共産党は根拠地である瑞金(ずいきん)を放棄し西南方面に移動。
[瑞金は中国東部の江西省の山間部にある。 中国共産党が革命拠点を置き、初めて政治権力として中華ソヴィエト臨時政府をおいた場所である。]
この当時共産党の実権を握っていたのは、李徳(オットー・ブラウン)、博古(秦邦憲)、周恩来の3人の中央委員だったが、この25000里の行軍の間に毛沢東共産党の指導者の地位を確立。
一年に及ぶ「長征」の後、紅軍は陳西省延安(せんせんしょうえんあん)に根拠を定めた。
(この時、徹底的な抗日を唱える張学良の率いる東北軍は陳西省西安に駐留していた。(--->西安事件、1936年12月12日)日本の侵略は、この中国の内乱に乗じて拡大の一途を辿っていた。
[長征は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう。]
(「長征」の行く手には国民党の四重の封鎖線があったはずだが、蒋介石はこの「長征」の主力部隊を意図的に通過させてやった。この詳しい理由は、ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.229-234とpp.240-241(紅軍とモスクワに捕われていた息子・蒋国経との交換交渉)とを参照)。
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※「長征」が1935年1月に貴州の遵義(じゅんぎ)にたどりついたとき、今後の方針について会議が行われた、そこには李徳、毛沢東朱徳、博古、周恩来、陳雲らの政治局員らとともに、劉少奇林彪楊尚昆トウ小平、その後の中国史を飾る主要な人物が際会した。毛沢東はここで黒幕として采配をふるうようになり、ついには絶対的権力を奪取した。
(さらに詳細なことは、やはりユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.242- を参照)
・ドイツとスウェーデンで強制断種法が制定された。(1934年)
                ---------------
・「滝川事件」(1933年、昭和8年):京大刑法学教授、滝川幸辰氏を追放。
「国権による自由封じ」の象徴。(黒沢明映画『わが青春に悔いなし』)
・挙国一致内閣(海軍大将、斉藤実)の横暴
「非常時」を叫び、ファッショ的な風潮と言論・思想統制が強まるなか、共産党の弾圧が強まった。
河上肇の検挙、小林多喜二の獄中虐殺など)
なお挙国一致とはファシズムにほかならない。
●「満州国」否認される。
日本、国際連盟を脱退(1933年、昭和8年2月24日)。
日本は国際的な孤立を深めていった。
昭和8年頃までに満州での軍事行動は一段落した。
関係者は満州国の 育成に努力したが、日本の政府や陸軍の配慮は十分でなかった。
日本のためだけの利益を追求するのにやっきになっており(満蒙開拓団)、
古くからの住民の生活が不当に圧迫された。
このことは日本人が他の民族と共存共栄する器量に乏しいことを証明した。
・「ゴー・ストップ事件」:大阪府警(粟屋仙吉大阪府警警察部長=S18.7
より広島市長・原爆で死亡)と陸軍の喧嘩:国民が軍にたてつくことができた最後の事件(半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p119)
● 出版法・新聞紙法改悪(1933年、昭和8年9月5日)当局による新聞、ラジオの統制強化
・救国埼玉青年挺身隊事件(昭和8年11月13日、猪又明正氏著『幻のクーデター』参照)
満州事変(1931年)の頃より約5年間ほど共産党(非合法)は相次ぐ弾圧により地下に潜り、労働者たちが反戦ビラを張りまくっていた。
むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.7)

 ★昭和十年代の大日本帝国のそこは(東京、三宅坂上、日本陸軍参謀本部)、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢であった。
・・・ここは左手の皇居と右手の国会議事堂や首相官邸のちょうど中間にある。
[当初参謀本部は、 陸軍省 等とともに 彦根藩 井伊家 上屋敷三宅坂 一帯(現在は、 憲政記念館 等が立地する 国会前庭 ( 東京都 千代田区 永田町 ))に置かれたが、 太平洋戦争 ( 大東亜戦争 )開戦の 1941年 ( 昭和 16年) 12月8日 から 15日 にかけて、 陸軍省教育総監部 、 陸軍航空総監部 共々、 三宅坂 一帯から 市ヶ谷台 の 陸軍士官学校 跡地(現在、 防衛省 が所在)に移転した。]
国政の府が直接に天皇と結びつかないように、監視するか妨害するかのごとく、参謀本部は聳立(しょうりつ)していたことになる。
書くまでもないことであるが、参謀本部とは大元帥天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。
・・・しかし1937年(昭和12)7月の日中戦争の勃発以来、11月には宮中に大本営も設置され、日本は戦時国家となった。
参謀本部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍令部)と協力し、統帥権独立の名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦争に勝つことにある。
次には来たるべき対ソ戦に備えることである。
そのために、議会の承認をへずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許されている。
大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、・・・日本軍は中国大陸の奥へ奥へと進撃していった。
三宅坂上の参謀本部は・・・民衆からは常に頼もしく、微動だにしない戦略戦術の総本山として眺められている。
・・・特に日本陸軍には秀才信仰というのがあった。
日露戦争という「国難」での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸軍大学校出の俊秀(しゅんしゅう)たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。
とくに参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが終結した。
・・・そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。
・・・そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。
・・・このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。
・・・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く、・・・はてしなき
論議のはてに、いったん課長がこれでいこうと決定したことには口を封じただ服従あるのみである。
・・・参謀本部創設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸となった集団意志を至高と認めているのである。
そのために作戦課育ちあるいは作戦畑という閉鎖集団がいつか形成され、外からの批判をあびた。
しかし、それらをすべて無視した。
かれらにとっては、そのなかでの人間と人間のつきあい自体が最高に価値あるものであった。
こうして外側のものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。
外からの情報、問題提起、アイディアが作戦課につながることはまずなかった。
つまり組織はつねに進化しそのために学ばねばならない、という近代主義とは無縁のところなのである。
作戦課はつねにわが決定を唯一の正道としてわが道を邁進した。
(以上、半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より若干改変して引用)
※これから約60年経た現在、状況は何も変わらなかった。
霞が関にたむろする見せかけのエリート集団が、平成の大不況のシナリオの主役となり、わが日本を経済的壊滅の危機に瀕しせしめている。
将来を見通す知恵も知識もなく滄桑(そうそう。つまり大海原と桑畑。移り変わりの激しさ)の変にさえも鈍感で新しいパラダイム(模範)を創造できず、過去に学ばない一群の特権的な役人が権力を握って、秘密主義・形式主義・画一主義で煩瑣(はんさ。こまごまとしてわずらわしいこと)で独裁的な政治を行い、そのなれの果てを今我々被支配者階級は、またしても否応なく味わわされているのである。

---------------<軍人どもの内閣諸機関への介入>----------------
・陸軍が対満事務局の設置に成功(1934年)
これにより外務省と拓務省の発言権が奪われ、満州問題は全面的に陸軍将校の統制下におかれることになった。
<関東局(駐満日本大使の監督下)ー関東軍の設置>
関東局が1934年12月26日付けで設置され、駐満日本大使は実際には関東軍司令官が兼任したため、結局軍人が満州問題を全面的に取り扱う事になった。(古川隆久氏著『あるエリート官僚の昭和秘史』芙蓉書房出版、pp.19-21)❞