kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(005)大正時代(1)❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)

平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html


※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。

USA第51州の実態(005)大正時代(1)

プロローグ
 ❝ ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
  一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。

日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)
           (後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

 ❝ USA第51州の実態(005)大正時代(1)

目次


**** 明治から大正へ**** 

★【大正デモクラシー
大正デモクラシーとは(日露戦争の戦後体制に関して考察)
普通選挙への流れの促進
■さらに大正時代は社会問題・社会運動・社会主義が話題の中心でもあった。
■大正は「婦人」の時代でもあった。
大正デモクラシーの時代は、日本の近代に短く咲いたあだ花でしかなかった。
※大正後半期から昭和初期頃までは栄養学がブームになっており素人もビタミンや酵素ということばを盛んにつかい、食物の成分を気にていた。
★【人間の狡猾さと残忍さが浮き彫りにされる時代の到来】
・「シーメンス事件」:大掛かりな収賄事件(大正3年摘発)
1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発
セルビアvs[オーストリアハンガリー + ロシア(スラブ系)]
三国協商:イギリス・フランス・ロシア (後で + イタリア)
●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)など
第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を呼ぶ。
☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)
☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」
☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)
石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)
※通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。
■歳入:7億3000万円(大正3年)----->20億8000万円(大正11年
第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。
★【国家存亡の戦いから、侵略戦争へ。狂気の政府と軍人の台頭】
・対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣-->袁世凱
孫文の日本への期待が裏切られた。
※中国の排日運動激化の一大転機となった。
●世界における本格的な毒ガス戦のはじまり(1915.4.22)
・1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空の支配権をもって争った。
・<フセイン・マクマホン書簡>(1914~1916)
●近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年
筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出
1916年(大正5年)~1918年(大正7年
■「大日本医師会」誕生(会長:北里柴三郎
理化学研究所創設(1917年、大正6年
大正6年4月20日の総選挙で憲政会(加藤高明)は政友会(原敬
●日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣の誕生
(1918年、大正7年 (---> 1921年原敬暗殺))
・1916年、アメリカ・ニューヨーク市でポリオが大流行。
ロシア革命(1917年、大正6年):レーニン登場
張作霖、北京政府に対し満州の独立を宣言。
アメリカがドイツに対して宣戦布告(1917年4月6日)。
・金輸出禁止(大正6年、1917年9月)
内務省が阿片製造を四社に限定(これまでは星製薬一社に限定されていた)
・英国バルフォア外相が英シオニスト会長ロスチャイルド卿にユダヤ人国家建設を約束
・石井・ランシング協定調印
●シベリア出兵(1918年、大正7年8月2日)
●「米騒動」(大正7.8.3~)
朝日新聞への弾圧(白虹事件)
・戦闘爆撃機登場。飛行機による近接航空支援の確立(1917~1918年)
第一次世界大戦終結(1918年11月)
スペイン風邪(インフルエンザ、H1N1)の猛威(1918~1919年)
●ワイマール共和国成立(1918年11月9日
1919年(大正8年
★ 労働者の目覚め、労働運動の芽生え。
神戸川崎造船所で8時間労働と賃上げを要求してストライキ
コミンテルン第三インターナショナル)結成
・「三・一事件(3月1日)」
・「北京五・四運動(5月4日)」
※五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく中国人すべてをも標的にした。
●ベルサイユ講和条約(1919年6月28日)
・ドイツにおいて民主主義的社会主義を唱え、ドイツ共産党を離れた
・この頃ドイツはハイパーインフレに見舞われていた。
●最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)
武者小路実篤はこの年の年初に「新しき村」を宮崎県日向の山奥に建設することを決めた。

********* 明治から大正へ*************

本文

★【大正デモクラシー
大正デモクラシーとは(日露戦争の戦後体制に関して考察)文明国をアピールするためには、戦中(日露戦争)においても言論の 自由を露骨に抑庄することはできませんでしたが、この事件(1905年9月の日比谷焼き打ち事件。国民の政治に対する意識や行動の高まりと、そ れを利用しての政府による統制強化)を通じて治安妨害を理由とする新聞・雑誌の発行停止権が内務大臣に与えられることになり、全国で29誌紙が延べ39回にわたって発行停止の処分を受けました。
こうして内務省保安局がメディアの生殺与奪の権を握ることとなり、また、死者17名を出した一 連の焼打ち事件をうけて、1908年刑法において集団による抗議行動も「騒擾罪(そうじょうざい)」として重罰化されました。
日露戦争という国家目標を終えた政府の次の課題が戦時体制から戦後経営体制に向けての再編であったとき、この事件は内務省主導の治安体制の強化にとって、このうえないきっかけと正当化根拠を与えることになったのです。
日露戦争中にもかかわらず、影響力をもった社会主義思想は、戦後こうして整えられた言論統制、治安維持の体制によって窒息させられていき、ついに1910年の大逆事件というフレームアップに至り、社会主義運動のみならず言論・結社・集会の自由そのものが「冬の時代」に入っていくことになります。
大正デモクラシーとは、こうした治安体制の中で閉塞状況にあった諸権利を獲得するための民主主義的改革要求の運動と思潮だったのです。
山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.156-156)

普通選挙への流れの促進(吉野作造民本主義憲政の常道を説く)立憲君主制の概念が定着<--(敵対関係)-->Nationalist・右翼団体
■さらに大正時代は社会問題・社会運動・社会主義が話題の中心でもあった。
■大正は「婦人」の時代でもあった。
関川夏央氏『白樺たちの大正』より)人々の意識は「日本人」から、「男」と「女」のジェソダーの別へと向けられ、女性の自己主張がはじまった。
第二の波は第一次大戦好況によってもたらされた。
そこに「主婦」と「勤労女性」という区分けが新たに生じたのは、好況と人々の会社員化によって「中流」意識が日本人に芽生えたからであった。
その背景には女性のための中等教育の著しい普及があった。
大正二年に高等女学校数は全国で二百十四校、生徒数は六万八千人であった。
それが大正8年には274校、10万3000人となり、大正10年には417校、15万5000人に急増した。
さらに大正15年には663校、29万7000人に達した。
大正年間に学校数で三倍強、生徒数で四倍強となったのである。
「大正時代のいわゆる『新しい女』を産み出した基盤は、この中等教育の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方 に疑問を抱き、社会的活動の可能性を模索しはじめる。男性文化に従属し、その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじめる。婦人の家庭からの解放を説き、女性の社会的進出と婦人参政権の獲得を繰返し取り上げた『婦人公論』が、そのオピニオン・リーダーであったことはいうまでもない」(「大正後期通俗小説の展開」前田愛、『近代読者の成立』)

大正デモクラシーの時代は、日本の近代に短く咲いたあだ花でしかなかった。
言論の自由は、時の政府が適当と認めたものに限っての自由であり、軍国主義の靴音とともに言論弾圧の時代へと入ってゆく。
(『司馬遼太郎が語る雑誌言論100年』より)
※大正後半期から昭和初期頃までは栄養学がブームになっており素人もビタ
ミンや酵素ということばを盛んにつかい、食物の成分を気にていた。
まるで平成10年代の日本のようである。いつの時代も平和ボケた時代の人々はこうなのだろうか。(筆者私見

★【人間の狡猾さと残忍さが浮き彫りにされる時代の到来】
・「シーメンス事件」:大掛かりな収賄事件(大正3年摘発)(検事総長平沼騏一郎、主任検事:小原直)日本帝国海軍上層部と、大手貿易会社<三井物産>、およびドイツ最大の電機企業コンツェルンシーメンス>と、イギリスの武器製造会社<ヴィッカース>が関わった疑獄事件。
ここに登場するワルどもは、シーメンス東京支社のヘルマン(証拠隠滅、贈賄)、ロイター通信社のプーレーとブランデル(贓物故買、恐喝)、松本和中将(当時約41万円の収賄)、沢崎寛猛大佐(収賄)、藤井光五郎少将(収賄)、山本条太郎など三井物産関係者(文書変造行使、贈賄)どもである。(後半部は、三好徹氏著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.23-24より)平沼騏一郎(岡山・津山藩)は薩摩閥の海軍(斎藤実海軍大臣ら)や三井財閥の逆襲をこわがって適当なところで撤退した。(三好徹氏著『政・財腐蝕の100年』講談社、pp.192-198より)

1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発(7月28日~1918年(大正7年)11月11日)
セルビア vs [オーストリアハンガリー + ロシア(スラブ系)]
サラエボ事件セルビア vs オーストリア(1914.6)
ドイツ  vs  フランス(ロシアの同盟国):植民地モロッコ争奪
ドイツ  vs  ベルギー(ドイツの入国を拒否)
ドイツ  vs  イギリス(ベルギーの同盟国):建艦競争
ドイツ  vs  日本(イギリスの同盟国)
三国協商:イギリス・フランス・ロシア (後で + イタリア)
<世界の結果:3王朝の崩壊>
1. ロシア:ロマノフ朝崩壊:ロシア革命(1917.11)
2. ドイツ:ホーエンツォレルン朝崩壊--->ワイマール共和国
3. オーストリア:ハプスブルグ帝国崩壊
●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)など
1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島とその付近を攻略(大正3年8月23日~11月7日)。
2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする協力を十分にしなかった。(--->日英同盟破棄(1921年))
3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。
4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。
5.こうして米英というアングロサクソンの国との緊密な関係がなくなり、日本が世界から孤立せざるを得なくなった。
第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を呼ぶ。
☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)
☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」
☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

石橋湛山の慧眼
第一次世界大戦とその後の日本への警告)
此問題に対する吾輩の立場は明白なり。
亜細亜大陸に領土を拡張すべからず、満州も宜く早きにおよんで之れを放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論なり。
更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。
(『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」)
而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪(しつお。妬み、にくみ)を買うあるのみ。
其の結果、吾輩の前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、其の必要に応ぜんが為めに、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。
(同上、大正3年11月25日号「社説」)
加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社、pp.10-11より孫引き)

※通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。
■歳入:7億3000万円(大正3年)----->20億8000万円(大正11年第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)
(-->昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)
第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。
農民の占める割合は50%を切った。
★【国家存亡の戦いから、侵略戦争へ。狂気の政府と軍人の台頭】
          --------------------
・対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣-->袁世凱) (「『軍閥抬頭』序曲」(若槻礼次郎))
孫文の日本への期待が裏切られた。
※中国の排日運動激化の一大転機となった。
●世界における本格的な毒ガス戦のはじまり(1915.4.22)ベルギーの町、イーブル付近の塹濠で好適な風が吹くのを待っていたドイツ軍は、午後5時30分から大量の塩素ガスをフランス・アルジェリア軍に向けて放射しはじめた。
 (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.1)
・1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空の支配権をもって争った。
・<フセイン・マクマホン書簡>(1914~1916)イギリスはアラブ人に対して、独立アラブ国家創設を約束したが、誠実にそれを履行しようとはしなかった。
あろうことかイギリスはフランスとの密約<サイクス・ピコ協定>によって、オスマン帝国のアラブ地域を両国で分割支配することを意図していた。

 --------------------<余談>--------------------
1083年から1099年までのパレスチナはセルジュク・トルコが支配した。1099年からは十字軍が各地を支配し、その状態が、十字軍がサラディンに敗れる1291年まで続いた。
パレスチナ人には十字軍の末裔だと主張する者が多いが、文化的にはアラブ文化が支配的だった。
大多数を占めるアラブ人はパレスチナ人と呼ばれた。
少数派のユダヤ教徒ユダヤとは呼ばれず、レヴァント人のつけた「イスラエル人」という名称でユダヤ教徒であることが示された。
次いでオスマン・トルコがパレスチナを征服し、1517年以後この地を支配したが、1918年にロレンス大佐(イギリス軍人「アラビアのロレンス」)率いるアラブ人の英雄的な戦いによって、パレスチナから駆逐された。
ロレンスはロイド=ジョージを首班とする自国政府に騙され、アラブ人は「三枚舌」外交で騙された。
まれに見る権謀術数やあからさまな欺瞞を経て、結局はトルコの支配から、国際連盟によるイギリスの委任統治に変わっただけだった。
パレスチナにはさまざまな民族が住んでいて、フェニキア人、シリアから来たアルメニア人、アンモン人、モアブ人、そしてアラブ系のナバテア人が入り交じっていた。
ローマに征服された当時のパレスチナには、発達した、それとわかる部族国家が31あった。
ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』太田龍監訳、成甲書房、p103)
          -------------------------------------------------
●近代ヤクザ山口組誕生(1915年、大正4年)ヤクザは光彩陸離(こうさいりくり。光が乱れ輝き、まばゆいばかりに美しいさま)として下層民の先頭に立つ。
 (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.40)
筑豊の吉田磯吉は福岡全県区から衆議院議員に当選、中央政界に進出。
憲政会(のちの民政党)の院外団(政党のゲバルト部隊=「羽織ゴロ」「政治ゴロ」=「ハカマ屋」)のまとめ役となり、この結果ヤクザが院外団をまとめることによって、政党政治と民間暴力の癒着が始まった。
 (宮崎学氏著『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房、p.44)

1916年(大正5年)~1918年(大正7年
■「大日本医師会」誕生(会長:北里柴三郎
理化学研究所創設(1917年、大正6年
大正6年4月20日の総選挙で憲政会(加藤高明)は政友会(原敬)に敗れた。
第一党の座は政友会に移り、これ以後10年間憲政会は第二党に甘んじた。--->
●日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣の誕生
  (1918年、大正7年 (---> 1921年原敬暗殺))
 
         --------------------
・1916年、アメリカ・ニューヨーク市でポリオが大流行。
8900人のう2400人が亡くなった。
(スティーヴン D. レヴィット、スティーヴン J.ダブナー『超ヤバい経済学』望月衛訳、東洋経済新聞社、p.183)

ロシア革命(1917年、大正6年):レーニン登場
張作霖、北京政府に対し満州の独立を宣言。
日本政府は満州において張作霖を支援。
アメリカがドイツに対して宣戦布告(1917年4月6日)。
・金輸出禁止(大正6年、1917年9月)

内務省が阿片製造を四社に限定(これまでは星製薬一社に限定されていた)星製薬株式会社、株式会社ラヂウム商会(-->武田薬品)、三共株式会社、大日本製薬株式会社(星製薬株式会社は1915年から阿片製造をしていた)なお平成の現在、武田薬品、三共製薬、大日本製薬の3者が特権的にモルヒネを製造し莫大な利益をあげているはずである。
(倉橋正直氏著『日本の阿片戦略 隠された国家犯罪』より)

・英国バルフォア外相が英シオニスト会長ロスチャイルド卿にユダヤ人国家
建設を約束(第一次世界大戦中のイギリスの中東地域占領。ユダヤ人と先住のアラブ系パレスチナ人との紛争の始まり)
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バルフォア宣言>(1917年11月2日)イギリス政府がパレスチナユダヤ人国家の創設を宣言したものとされているがこれは当時のイギリスの外務大臣だったアーサー・バルフォアのライオネル・ロスチャイルド卿宛の書簡だったという。
イギリス政府は、パレスチナユダヤのための民族郷土を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするため、最善の努力を払うものである。
ただし、パレスチナに現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の諸国におけるユダヤの享受する諸権利と政治的地位が損なわれるようなことは許されない旨、明確に了解される。
(ジョン・コールマン博士『石油の戦争とパレスチナの闇』
 太田龍監訳、成甲書房、pp117-118)

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・石井・ランシング協定調印(中国での機会均等、門戸解放、日本の特殊地位の承認など)
●シベリア出兵(1918年、大正7年8月2日):満州が再び脚光を浴びはじめた。
●「米騒動」(大正7.8.3~)米の買い占めで米価が高騰(一升(1.5kg)10銭(T3)-->34銭(T7.6)-->45銭(T7.7))、富山県の海岸地帯にはじまった「米騒動」が全国に広がった。
寺内内閣はこの鎮圧のために軍隊を出動させたために総辞職に追い込まれた。
(--->原敬(賊軍かつ平民だった:閨閥のはじまり)内閣の成立、大正7年9月25日。薩長主流の藩閥政治の終焉)
【※閨閥(けいばつ)とは、外戚(妻方の親類)を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す。】

朝日新聞への弾圧(白虹事件、はっこうじけん):政客のような記者の否定、政府の反対勢力としての新聞の役割の終わり(大正7年12月8日)
 (詳細は、関川夏央氏『白樺たちの大正』173-198頁を参照)
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・戦闘爆撃機登場。飛行機による近接航空支援の確立(1917~1918年)
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第一次世界大戦終結(1918年11月)800万人以上が死亡(ロシア:180万人、フランス:140万人など)主戦場となったフランスの繊維産業は壊滅的打撃をうけた。
イギリス、フランス、ドイツの金総保有量は戦争が終わったときはわずか20億ドル程度にすぎなかった。
スペイン風邪(インフルエンザ、H1N1)の猛威(1918~1919年)世界で2500万人以上(4000万人ともいう)が死亡。
日本では2300万人が罹患し38万人余り(これも一説では約15万人)が死亡。近代演劇の旗手、島村抱月(47歳)もこのインフルエンザで死亡した。

●ワイマール共和国成立(1918年11月9日--->1933年ヒトラー独裁体制により終焉)社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国成立を宣言した。
これにより1919-1933年までドイツは14年間のマルクス主義制度(ワイマール共和制)下にあった。
しかしこの体制は腐敗、頽廃、犯罪の蔓延などで大きく混乱・荒廃し、ナチ党・ヒトラーの台頭を加速した。

1919年(大正8年
★ 労働者の目覚め、労働運動の芽生え。
神戸川崎造船所で8時間労働と賃上げを要求してストライキ
コミンテルン第三インターナショナル)結成レーニン主導のもと、ロシア共産党を中心に各国の共産党を糾合。
(ただし、ロシアの方針転換にともない1943年解散)

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・「三・一事件(3月1日)」:朝鮮半島京城平壌・義州で一斉に争乱が起こった。
独立を願う朝鮮民族運動。
日本は弾圧し死者1200人以上。

・「北京五・四運動(5月4日)」:アジア的専制制度(家族制度=儒教)の打倒運動
※五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく 中国人すべてをも標的にした。
これは中国革命における新しい要素であり、商工業者や秘密結社を不安にした。
租界内あるいはその周辺の邸宅で、安全かつ快適に暮らしている上海の資本家の立場からは、革命は邪道に入ってゆくように見え、彼らの生活と中国経済に対する支配力を脅かすように見えた。
北京における学生運動の指導者の一人は穏健な知識分子で、名前は 陳独秀(チエントウシウ)、北京大学文学院の院長〔文学部長〕で、そこの図書館では毛沢東が働いていた。
陳は北京大学にいた二年間で中国の先進的知識分子のリーダーとなり、雑誌『毎週評論』を舞台に、革命的左翼の新思想を広めた。
この雑誌は可能な限り多くの読者を獲得するために、日常的な口語文で書かれていた。
五・四運動が北京で勃発したとき、彼は衰世凱を弾劾するパンフレットを発行し、そのため三カ月間の投獄と拷問を味わった。
釈放後、彼は大学の職を辞して上海に移った。
そして1919年秋には、そこで若い無政府主義者社会主義者マルクス主義者たちの中心にいた。・・・
上海における、陳独秀と彼の無害かつ動揺しがちな知識分子のグループは、レーニンおよびマルクスの教義は現下の中国の情勢に適合するものであり、それを実践するためには、中国に共産党を創立しなければならないと決定した。
共産主義インターナショナルの代表、グレゴリー・ヴォイチンスキーが討論に加わったことが、彼らがこの結論に到達するのにあずかって力があったのは明らかである。
陳独秀の大学在職時代の同僚や学生たちの援助で、中国各地にマルクス・レーニン主義の研究グループが組織された。
湖南省省都、長沙でこの組織にあたったのが、若き日の毛沢東であった。
 (S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、pp.213-214)

●ベルサイユ講和条約(1919年6月28日)オスマントルコ帝国は細かく解体され、ソヴィエト連邦が国際的に承認された。
敗戦国ドイツのは巨額の戦争賠償金が課せられた。
・ドイツにおいて民主主義的社会主義を唱え、ドイツ共産党を離れたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺された。
・この頃ドイツはハイパーインフレに見舞われていた。
(--->有能な財政家、ヒャルマー・ホラース・グリーリー・シャハトにより1920年代初頭に終結

●最初の陸軍特務機関(対外情報機関)設置(1919年)ウラジオストクハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、ニコラエフスク吉林、ハルピン、チタ、イルクーツク、オムスクなど極東ロシア地域に設置。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.42)❞
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武者小路実篤はこの年の年初に「新しき村」を宮崎県日向の山奥に建設することを決めた。 (関川夏央氏『白樺たちの大正』より) ❞