❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)
平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html
※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞
プロローグ
❝ ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)
※昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立
ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)
(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)“
❝ USA第51州の実態(006)大正時代(2)❞
❝ 目次
1920年(大正9年)
■国際連盟に日本は常任理事国として参加。
★日本は表向きの好況で投機熱が煽られていた。
・大正バブルの崩壊=戦後恐慌(大正9年3~4月)
・官営八幡製鉄所でストライキ発生、溶鉱炉の停止。
・上野公演で最初のメーデーが開かれた。
・労働争議や労働者のデモンストレーションは各地で頻発するようになった。
※資本家と労働者の葛藤(原敬内閣はこれを放置していると見られた)
●「米騒動」:米価高騰に対する群衆の反乱(全国500箇所以上での暴動)
●原敬内閣(第43回議会)での軍需費の大幅な増大(一般歳出の半分)。
・日本で初めて国勢調査が実施される(1920年7月、大正9年)。
・学歴志向の高揚
●インドの天才数学者ラマヌジャンが32歳で病死(1920.4.27)
・中国共産党発足(1921年7月、大正10年)
・ワシントン会議(1921~22年、大正10~11年)
・ムッソリーニの台頭(1922年、大正11年)
●イーライリリー社、はじめての産業規模でのインスリン生産を始める
・ドイツの戦後インフレ
●「バーデン・バーデンの盟約」(1921年、大正10年10月27日)
・原敬暗殺(1921年、大正10年11月4日)
・大隈重信没(1922年、大正11年1月10日)
●山県有朋病死(1922年、大正11年2月9日)
●全国水平社の創立宣言(1922年、大正11年3月2日)
1923年(大正12年)
●関東大震災
※後藤新平の復興計画(チャールズ・ピアーズの協力)
※蔵相井上準之助は国内初のモラトリアム(9月7日、支払猶予令)を公布
※震災手形:関東大震災により、特に建築、土木、不動産関係の手形が紙クズ同然になったが、政府はそれを「震災手形」化してとりあえず急場を凌いだ。
※流言飛語の飛び交うなかで、多数の在日朝鮮人が虐殺され、社会運動家の大杉栄と伊藤野枝、橘宗一(6歳)が憲兵隊(甘粕正彦大尉ら)によって惨殺された(大杉事件(9.16))
※伝染病の流行(吉村昭氏『関東大震災』文春文庫、p.246)災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、伝染病の流行が見られた。
※見事な学生の羅災者救援
●大杉事件(大正12年9月16日)
●トルコ共和国が正式に誕生(1923.10.29、PM8:30)
●虎ノ門事件(1923年12月27日):難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)をステッキ銃で狙撃。
●レーニン死亡(1924(大正13)年1月21日)
●憲政会(加藤高明)第一党に復帰(大正13年5月10日、第15回衆院選挙)
・1924年はインド独立運動史にとって記念すべき年だった。
1925年(大正14年)
ラジオ放送開始
■「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立(内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
※第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年以下の懲役か禁錮に処する。
●●「国体」とは●●
※星島二郎の反対演説
■「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
●孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
●日本がイスタンブールに大使館を設置(1925年3月)
・イギリスが1ポンド=4.86ドルで金本位制に復帰(1925年4月)
・フランスのフラン大暴落
●5・30事件(1925年5月30日)
・大正天皇崩御(48歳、大正14年12月25日)
・南京に国民政府誕生、北京へ向かい北伐開始(1926.7)。
・1926年11月、国民党左派が武漢を攻略、国民政府は武漢に移転。
●若槻内閣誕生(大正15年1月30日)--->
●田中義一内閣への変遷
❝ USA第51州の実態(006) ❞
本文
1920年(大正9年)
■国際連盟に日本は常任理事国として参加。
日本はいちおう軍事大国となった。(その実、内情は火の車)
★日本は表向きの好況で投機熱が煽られていた。
しかし内実は戦争関係の不自然な政府の支出と戦時中の浪費性向と熟慮の停止からおきた好景気の外観でしかなかった。
案の定大正9年3月15日から株式市場は大暴落し不況は全国に始まりだした。
(城山三郎氏著『男子の本懐』より)
・大正バブルの崩壊=戦後恐慌(大正9年3~4月)
・官営八幡製鉄所でストライキ発生、溶鉱炉の停止。
・上野公園で最初のメーデーが開かれた。
・労働争議や労働者のデモンストレーションは各地で頻発するようになった。
※資本家と労働者の葛藤(原敬内閣はこれを放置していると見られた)
「今日の世界に於いて、尚ほ階級専制を主級する者、西には露国の過激派政府の『ニコライ、レニン』あり、東には我原総理大臣あり。
(拍手起り『ノウノウ』と呼び其他発言する者多く、議場騒然)。
若し私は此・・・(『懲罰々々』と呼び其他発言する者多し)、終わりまで御聴きなさい。
其提げて立つ所の階級が『レニン』は労働階級である。
原首相は寧ろ資本家階級であると云うことは違うけれども、倶に民本主義の大精神を失うことは同じである。
(拍手起り『ノウノウ』と呼ぶものあり、議場騒然)」
(永井柳太郎の演説より)
●「米騒動」:米価高騰に対する群衆の反乱(全国500箇所以上での暴動)
●原敬内閣(第43回議会)での軍需費の大幅な増大(一般歳出の半分)。
・日本で初めて国勢調査が実施される(1920年7月、大正9年)。
東京市の人口:217万人(--->1932年、昭和7年、575万人)
・学歴志向の高揚
大学生+高等専門学校生数の増加 : 86000人(T10)-->126000人(T14)
中学+高等女学+実業学校生の増加:445000人(T10)-->744000人(T14)
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●インドの天才数学者ラマヌジャンが32歳で病死(1920.4.27)
・中国共産党発足(1921年7月、大正10年)
コミンテルンの支持。
しかしコミンテルンは中国革命の中心的担い手は国民党であるとして、中国共産党に対して国民党との連合戦線をはるよう求めた。(--->「第一次国共合作」(1924.1)へ)
・ワシントン会議(1921~22年、大正10~11年)
この会議は大幅な軍縮を提案したが、同時に日英同盟破棄につながった。
(アメリカ中心の日本封じ込め体制)
・ムッソリーニの台頭(1922年、大正11年)
●イーライリリー社、はじめての産業規模でのインスリン生産を始める
(1922年6月、大正11年)。
ただしインスリンで助かるかそれが裏目に出るかは紙一重の差だった。
純度と力価の問題が残っていた。
・ドイツの戦後インフレ
4.2マルク/ドル(戦前)-->8(1918年)-->62.5(1921年)-->6000(1922年)-->15000(1923年、初頭)-->15万(1923年、夏)-->4.2レンテンマルク(戦前に比して1兆分の1になった1923年11月)
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●「バーデン・バーデンの盟約」(1921年、大正10年10月27日)
永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンのホテルで深夜まで話し込んだ。
今ではなかば伝説と化している「盟約」とは、(1)長州閥専横人事の刷新、(2)軍制改革(軍備改編、総動員体制の確立)の大目標に向けて同志を結集すること。
(--->「一夕会」--->満州事変へ(注:戦後に岡村寧次が語ったこと))
・原敬暗殺(1921年、大正10年11月4日)
・大隈重信没(1922年、大正11年1月10日)
●山県有朋病死(1922年、大正11年2月9日)
陸軍内部の出身地閥による派閥闘争の終焉
●全国水平社の創立宣言(1922年、大正11年3月2日):京都岡崎公会堂
松本治一郎、西光万吉、阪本清一郎、米田富、山田孝野次郎、柴田啓蔵ら
1923年(大正12年)
●関東大震災(大正12年9月1日午前11時58分44秒):日本の工業力への大打撃。
死者・行方不明者10万5千余人。
被災者300万人、被害総額55億円(GDPの半分)。
(東京市長:後藤新平)
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そのうち、私たちは空地を出て、歩き始めました。
誰かが歩き出したら、みんなゾロゾロと歩き出しただけで、誰も行先があるわけではありません。
亀戸天神に近づく頃、避難民の群は大きく膨れ上って、私たちは、道幅一杯の長い行列になってノロノロと流れて行きました。
みんな黙っています。
しかし、時々、行列の中から、見失った家族の名前を呼ぶ叫びが聞こえます。
私たちも、思い出したように、妹や弟の名前を呼びました。
けれども、あの空地にいた時、柳島尋常小学校の子供たちはみんな焼け死んだ、と誰かが言っていましたので、もう諦めていました。
感情が鈍くなっていたというのでしょうか、悲しみを鋭く感じるのでなく、自分というものの全体が悲しみであるような気分でした。
家族の名前を呼ぶ声が途絶えると、行列の中から、時々、ウォーという大きな坤き声のようなものが起ります。
それを聞くと、私の身体の奥の方から、思わず、ウォーという坤き声が出てしまいます。
その夜は、東武鉄道の線路の枕木に坐って、燃え続ける東京の真赤な空をボンヤリと眺めていました。
(清水幾太郎ら『手記・関東大震災』1975より)
(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.4)
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※後藤新平の復興計画(チャールズ・ピアーズの協力)
1) 遷都すべからず。
2) 復興に30億円(2011年換算では175兆円)を要すべし。
3) 欧米最新の都市計画を採用採用して我が国にふさわしい新都を造営せざるべからず。
4) 新都市計画実施のためには地主に対し断固たる態度を取らざるべからず。(『文藝春秋』2011年6月号、pp.96-97)
※蔵相井上準之助は国内初のモラトリアム(9月7日、支払猶予令)を公布
した。
東京は廃墟と化し、景気は益々後退。
大量の不良債権が発生。
政府は「震災手形」を発行し、それを政府保証で日銀に割り引いて引き取らせることで、結果的に不良債権をごまかし続けることになった(大正12年9月27日、日銀震災手形割引損失補償令を公布)。
この時の日銀の手形の再割り引きは4億3000万円に上った。
※震災手形:関東大震災により、特に建築、土木、不動産関係の手形が紙クズ同然になったが、政府はそれを「震災手形」化してとりあえず急場を凌いだ。
しかし悪徳業者は、震災以前の不良債権まで「震災手形」に紛れ込ませ、市中の不良債券を日銀に引き受けさせることになった。
結局これによる赤字財政は、後々まで悪い影響を残すことになった。
※流言飛語の飛び交うなかで、多数の在日朝鮮人が虐殺され、社会運動家の大杉栄と伊藤野枝、橘宗一(6歳)が憲兵隊(甘粕正彦大尉ら)よって惨殺された(大杉事件(9.16))。
大正デモクラシーの終焉を象徴する事件だった。
(「一致行動」のみに長けていて「個人性格」を持ってない「集団」(大衆)の登場)
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例えば警察は、東京下町の住民を本所被服廠跡の一方所に誘導したため、集まった4万の群衆の衣服に火が移り、3万8000人が焼死した。
東京市内の死者は6万といわれているので、その6割をこえる人々は警察の強権的な誘導によって死んだことになる。
また、「朝鮮人来襲」の流言を拡げたのも警察であった。
震災の翌日、9月2日、政府は米騒動のときでさえとらなかった戒厳令(この場合は行政戒厳)を施行し、五万の軍隊で「朝鮮人来襲」にそなえた。
警察の呼びかけによって、青年団、在郷軍人、消防隊などを軸として自警団が組織され、彼らは各地でーーただし火災被害の少ない地域でーー朝鮮人を惨殺していった。
殺された朝鮮人は、政府の発表では231人とされているが、実数は10倍を越えるといわれている。
ほかにも、多くの中国人が殺された。
このような官民一体の大量虐殺の情勢のなかで、多くの社会主義者や無政府主義者が殺害されていった。
大杉栄、伊藤野枝らも東京憲兵隊の甘粕正彦大尉に「国家の害毒」として殺されたのである。
しかも、官憲と自警団による犯罪は詳しく調べられることはなく、責任を問われることもほとんどなかった。(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.2-3)
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※伝染病の流行(吉村昭氏『関東大震災』文春文庫、p.246)
災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、伝染病の流行が見られた。
震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して2619名の患者を出しそれが衰えた後、腸チフスが猖獗(しょうけつ。悪い物事がはびこり、勢いを増すこと。猛威をふるうこと)をきわめた。
その罹病者は4675名にのぼり、中でも北豊島郡などでは9、10月の2カ月間に700余名の発病者が出た。
その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計14364名という平年の2倍以上の数に達し、死者1827名を数えた。
※見事な学生の羅災者救援
さらに学生たちは、「東京羅災者情報局」を作った。
今でいう、情報ネットワーク作りである。
彼らは東京市と協力し、全市にわたる避難者名簿を精力的に作成し、尋ね人探しを容易にした。
全市および隣接町村に散っているすべての傷病者収容所を訪ね、その氏名、住所リストを作った。
区役所と警察を歩き、死亡者名簿を作成した。
また、歩いて調べた正確な焼失区域地図を作って、新聞を通して公表したの
である。
9月2日には戒厳令が布かれ、地方の人が東京に入ることは難しく、親族の安否を尋ねることもできなかった。
学生の作ったデータは、人々の不安をやわらげたのだった。
末弘教授は、「平素動(やや)ともすれば世の中の老人達から、私事と享楽とにのみ没頭せるものゝ如くに罵られ勝ちであった現代の学生が、今回の不幸を機として一致協力文字通り。寝食をすら忘れて公共の為めに活動努力し、以て相当の成績を挙げることが出来たことは、平素学生の「弁護人」たる私としては此上もない嬉しいことである」と書いている。
阪神間の大学教授で末弘教授と同じ思いを今回持った人もいるであろう。
72年前の権威的な社会でのこと、民衆の自立の力は弱く、学生の救援活動はきわめてエリート的である。
それにしても、避難民の自治を促し、警察やマスコミが今日やっている情報センターとしての機能をはたしていったことに、私は感心する。
学生たちの救護活動から、3カ月後に東京帝大セツルメント(会長は末弘厳太郎)が作られ、2年後の東京本所における活動に発展していく。
私たちはこんなボランティアの歴史があったことをすっかり忘れている。
昭和の全体主義があり、戦争があり、敗戦から経済復興、そして富裕な80年代社会へ移りゆく間に、新しい出来事の記憶は、それ以前の人々の反応の記憶をかき消してしまったのである。
(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.72-73)
●大杉事件(大正12年9月16日)
憲兵隊分隊長甘粕正彦が、社会主義無政府主義者大杉栄と妻伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)を絞殺の上、空井戸に放り投げた。
まことに残虐な行為だった。
(付録:大杉栄に同調していた無政府主義者(新聞『労働運動』同人)和田久太郎、村木源次郎、山鹿泰治、岩佐作太郎、水沼辰夫、和田栄太郎、近藤憲二ら)
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【大杉栄『生の闘争』の中の『鎖工場』より】
おれは再びおれのまわりを見た。
ほとんど怠けものばかりだ。
鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。
こんなやつらをいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。
おれはもう衆愚には絶望した。
おれの希望はただおれの上にかかった。
自我の能力と権威とを自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮斗努力する、極小の少数者の上にのみかかった。
おれたちは、おれたちの胃の腑の鍵を握っているやつに向かって、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制度に向かって、野獣のようにぶつっかってゆかなければならぬ。
(松下竜一氏著『ルイズ』講談社、p.95より)
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夜、芝生や鳥小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つて来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰つて来た、と言います。
私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の血を洗つていることです。
誰を殺したのか、と聞いてみると、得意気に、朝鮮人さ、と言います。
私は腰が抜けるほど驚きました。
朝鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺すとは夢にも思つていませんでした。
…………軍隊とは、一体、何をするものなのか。
何のために存在するのか。
そういう疑問の前に立たされた私は、今度は、大杉栄一家が甘粕という軍人の手で殺されたことを知りました。
……私は、判らないながら、大杉栄の著書を読んでいたのです。
著書の全部は理解出来ませんでしたが、彼が深く人間を愛し正義を貴んでいたことは知つていました。
人間を愛し、正義を貴ぶ。
細かいことが判らなくても、私には、それだけでよかつたのです。
それが大切だつたのです。
その大杉栄が、妻子と共に殺されたのです。
殺したのが軍人なのです。
軍隊なのです。
日本の軍隊は私の先生を殺したのです。
軍隊とは何であるか。
それは、私の先生を殺すものである。
それは、私の先生を殺すために存在する。
……(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.5)
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●トルコ共和国が正式に誕生(1923.10.29、PM8:30)
大統領選挙では "トルコの父" ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)がトルコ共和国初代大統領に選出された。
--->カリフ制の廃止。
政教分離の確立。
●虎ノ門事件(1923年12月27日):難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)をステッキ銃で狙撃。
●レーニン死亡(1924(大正13)年1月21日)
●憲政会(加藤高明)第一党に復帰(大正13年5月10日、第15回衆院選挙)
--->加藤高明内閣(護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)内閣) 成立(大正13年6月9日)
斎藤隆夫(憲政会)の5年来の夢であった普選法案(衆議院議員選挙法改正法律案)が陽の目をみることになった。
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・1924年はインド独立運動史にとって記念すべき年だった。
1. ヴィール・サルバルカル(ブラーミン出身の文民政治家)の帰国
2. マハトマ・ガンジーの釈放不可触民(ふかしょくみん。カースト制度(ヴァルナ・ジャーティ制)の外側にあって、インドのヒンドゥー教社会における被差別民である)解放についてはガンジーはあくまでも表面的な保護者でしかなく、何ら彼らの現実を変える事が出来なかった。
アンベードカルは不可触民解放の現実的指導者であり、二人は互いの力量を認めながらも激しく対立した。
3. ビームラーオ・アンベードカル(インド不可触民解放の父)が政治の表面に姿を表わす。
(ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』山際素男訳、光文社新書より)
1925年(大正14年):ラジオ放送開始
■「治安維持法」(日本を戦争に向かわせることになる大悪法)成立
(内務大臣:若槻礼次郎、大正14年3月19日)
治安維持法は思想弾圧のための法律で最高刑は死刑。
昭和16年に全面改正され、取り締まり範囲の拡大、予防拘禁まで採用された。
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※第一条「国体もしくは政体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、これに加入したものは十年以下の懲役か禁錮に処する。
●●「国体」とは●●
当時の憲法の基本秩序である天皇主権と資本主義経済秩序をいう。
(長谷部恭男氏著『憲法とは何か』岩波新書、p.23)
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※星島二郎の反対演説
「反動内閣が天下を取りまして、此の条文を楯に取ってもし言論を圧迫し、結社を圧迫するならばーー私が仮に当局者となってやるならば此法案の一条でもって、日本の大部分の結社を踏み潰すことが出来る」と警告した。
(結局、同法は衆議院では246対10人の大差で可決された。反対者のなかには星島のほかに、尾崎行雄、坂東幸太郎の二名ののちに同交会のメンバーとなる議員の名が見られる。このときの星島の危惧が現実のものになるには、それからあまり時間はかからなかった)。
(楠精一郎氏著『大政翼賛会に抗した40人』朝日新聞社、pp.57-58)
■「普通選挙法」成立(大正14年3月29日--->5月5日公布)
(上記2法はセットで成立していた)
●孫文死亡(北京にて、肝臓癌、1925年3月12日、59歳)
いわゆる「大アジア主義」演説(於神戸 1924年11月28日)
「・・・あなたがた日本民族は、西方覇道の手先となるか、それとも、東方王道の干城となるか、それは日本国民が慎重におえらびになればよいことです」。
資本主義=重財而徳軽
共産主義=重物而軽人
亜州主義=重人並重徳(=アジア主義)
(孫文は、この演説のなかで井伊直弼が安政条約を結んだ1858年から明治27年(1894年。安政の不平等条約解消。7月25日から1895年(明治28年)4月17日まで日清戦争)までの36年間の日本が、欧米の植民地であって独立国ではなかったと規定した)
●日本がイスタンブールに大使館を設置(1925年3月)
トルコとの外交関係成立。
日本としては10番目、アジア地域でははじめての大使館であった。
初代大使は小幡酉吉。
「日土貿易協会」も設立され初代理事長は山田寅次郎。
・イギリスが1ポンド=4.86ドルで金本位制に復帰(1925年4月)
当時の大蔵大臣はウインストン・チャーチルだった。
イギリスはこの後、コスト高の炭坑業界にはじまり、失業者続出の大不況に見舞われることになる。
・フランスのフラン大暴落
1ドル=5.4フラン(1918年)-->11フラン(1918年)-->49フラン(1926)
●5・30事件(1925年5月30日)
日本資本の内外綿紡績工場の争議中に日本人監督が組合指導者の一人を射殺し十数人を負傷させたことに端を発した大惨事。
これをきっかけの中国全土に反帝国主義運動が拡大。
・大正天皇崩御(48歳、大正14年12月25日)[※正しくは大正15年(1926年)12月25日]
--->昭和(「百姓昭明、協和万邦」、昭和元年は1週間のみ)
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・南京に国民政府誕生、北京へ向かい北伐開始(1926.7)。
満州(張作霖)との軋轢。
(--->山東出兵(1927.5))
※北伐:各地の軍閥を攻撃して帰順させようとした。
○国民党左派(宋慶齢):武漢を目指して北西へ進軍
○国民党右派(蒋介石):南昌、上海に向けて進軍
・1926年(大正15年)11月、国民党左派が武漢を攻略、国民政府は武漢に移転。
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●若槻内閣誕生(大正15年1月30日)--->●田中義一内閣への変遷
議会構成は憲政会165・政友会161・政友本党87の議席数(政友会は犬養総裁の革新倶楽部を吸収)。
この内閣は朴烈怪写事件・金融恐慌など激しい政争。
経済的混乱で倒れ(1927年、昭和2年)、田中義一内閣という久しぶりの政友会内閣ができた(1927年、昭和2年4月)。