kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(015)昭和15年(1940年)❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞
(初稿1999.10.29)
❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ

 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。

 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞



❝USA第51州の実態(015)昭和15年(1940年)❞

目次

❝1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
大東亜戦争」:1941年12月10日に大本営政府連絡会議で、「支那事変を含め大東亜戦争と呼称す」と 決めた。
 ★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)
 ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
・日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
・南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)
満州への定住者約86万人(昭和15年
・日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。(昭和15年3月)
・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造機を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密はアメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の戦略暗号も1942年春に破られた。
★米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
★第二次近衛内閣成立(昭和15年7月22日):日本史上最低最悪の内閣だった
●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)
●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月以降)
●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが・・・)
●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
・1940年11月、大統領選挙に勝利したルーズベルトは本格的に対中支援の具体化に乗り出した。
・1941年3月、中国とアメリカとの間に武器貸与協定が結ばれる。
●1941年6月頃、ヒトラーが捕虜収容所における大量殺害を命じた
★「大政翼賛」への道(1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だった)
■全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)
■新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)
★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)
大政翼賛会発足(1940年、昭和15年10月12日発会式)
★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)
★軍隊というのはカルト教団だ ❞



本文

❝1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
大東亜戦争」:1941年12月10日に大本営政府連絡会議で、「支那事変を含め大東亜戦争と呼称す」と決めた。

第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
ナチス・ドイツノルウェーデンマークを占領(4月)、西部戦線での戦端を開き(5月)フランス(ダンケルク撤退)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに進攻。
パリ陥落(6月24日)。
イギリスの苦境。

※これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の東南アジア 進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」拡大構想推進の千載一遇のチャンスと見えた。
またアメリカが対日全面禁輸の措置にでるまえに東南アジアの資源を確保する必要があった。
※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本の南部仏印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月2日の御前会議へとたどりつく。
この御前会議は、陸海軍の方針を基本的に受け入れた「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を原案どおりに決定したもので、その核心は要するに、第一に南進政策の実現のためには「対英米戦を辞せず」の方針を、第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策として決定したことにあった。
つまり対米兵戦と対ソ戦をどちらでも行うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思として設定された のである。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社,p.136)

・日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。
それによる不利を補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注目。
フランスとの軋轢を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.9.23),南部仏印へ進駐(S16.7.28))
・南京に汪兆銘(おう ちょうめい)政府成立(昭和15年3月30日)
日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもって王兆銘をかつぎだし、国民政府の正統であることを誇示するように青天白日旗を戴いて成立させた。
この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日中和平論者の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで作られたが、基盤は明らかに脆弱だった。
また王兆銘自らも行動原則や行動理念のない言行不一致の政治家だった。
満州への定住者約86万人(昭和15年
・日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。
昭和15年3月)
しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽の試みに近かった。(海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和15年8月に始まったが、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和天皇の強い嫌悪もあった)。

・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密はアメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の戦略暗号も1942年春に破られた。
★無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相海軍次官山本五十六中将、軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉衆議院議員斎藤隆夫氏の名前を忘れないでおきたい。

※井上成美「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、部下を大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」(加野厚志氏著『反骨の海軍大将 井上成美』より)
協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍大臣米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂を分かった。

斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分 『支那事変の処理方針に関する質問演説』)

「一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争い ではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する。これが戦争である。・・・弱肉強食の修羅道に 向かって猛進する、これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視してただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。・・」
(『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)

斎藤隆夫:「いまのままでは世間は闇だよ。おれの演説を議会速記録から削除するような秘密主義で、どこに文明国の政治があるか。政府も政府なら議員も議員だ。わけもわからずギャーギャー騒いでおる。日本国中に真の政治家は一人もいやしないよ。滑稽じゃないか、みんな後ろ鉢巻きで騒いでおるよ」
むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.22)

山本五十六(当時第二航空戦隊、航空参謀、奥宮正武少佐の述懐より)「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、それが いれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは国家の運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心事は、私ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないことである」
(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

★米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にし たことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツの一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとするファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろう。
ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃をうけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦争突入の足場をつくって行くのである。
(実松譲著『米内光政正伝』光人社、 p.206)

★第二次近衛内閣成立(昭和15年7月22日):日本史上最低最悪の内閣だった陸相 東条英機海相
吉田善吾:日独伊三国軍事同盟締結に反対なるも病弱・疲労困憊で役立たず。(-->後任及川古志郎)
外相 松岡洋右:名誉欲が強く権謀術数に長けた専断拙速猪突猛進の危険人物・釣針のように曲がったペテン師

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組閣五日後の七月二十七日、新内閣と大本営との連絡会議がひらかれ、そこで「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が決定された。
その結果近衛は、(1) 支那事変の徹底遂行、(2) 南方武力進出、という二大冒険を敢えてせざるを得なくなった。そもそも、この「時局処理要綱」は、陸軍がいわゆる”ヒトラーのバスに乗りおくれるな”と叫んで政戦両略の大転換を行なったその根拠として作成したものであり、米内内閣末期の七月三日、参謀本部陸軍省の首脳会議で決定したのであった。
この要綱には、対英一戦の覚悟のもとに、武力を媒介として南方への勢力進 出を試みようとする陸軍の考え方が反映していた。
また外交政策の面では枢軸提携を強化し、さらにソ連とも協調して旧秩序勢力と対決する方針も打ち出されていたのである。
この「時局処理要綱」の内容は、いうまでもなく日本の針路に画期的な影響を与えるものである。
だから、こうした重大な国策ーー国家の運命に超重大な影響を及ぼすーーは、わが国の生死の問題として超真剣に取り扱うべきであり、長い時間をかけて検討し、熟慮に熟慮を重ねても慎重にすぎることはなかったのだ。
にもかかわらず、近衛内閣は成立早々、わずか三時間の論議大本営のお供えものを鵜呑みにしてしまった。
それは軽率以上のものであり、そこに日本の悲運が胚胎していたのである。思えば、まことに腑甲斐のない”挙国”内閣のスタートであった。
(実松譲著『米内光政正伝』光人社、pp.211-212)

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●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
富永恭次佐藤賢了軍紀違反による横暴。
昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。(他は満州事変、ノモンハン事件

  • ●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
    ※これがくだらない大東亜戦争へのノー・リターン・ポイントだった。
    ※近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
    松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論でいたが、ヒトラーソ連の対立が根強く、実現ははじめから不可能であった。
    またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作戦の礎石と考えていた。
    ※過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。      当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。
    総理大臣は法的に全く無力であった)。

<米内光政の名言>
「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾うに過ぎざるべし」
ヒトラームッソリーニは、どっちへ転んだところで一代身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさるというなら、言語道断の沙汰である」「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」(阿川弘之氏著『大人の見識』新潮新書、p.123))

※近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣山本五十六・米内光政
・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱にして辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
(『小倉庫次侍従日記』(文藝春秋2007年4月号)より)

関東軍情報部発足:柳田元三少将(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.43)。
対ソ諜報活動が中心。

  • 日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月以降)
    (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)
  • 日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが・・・)・1940.10.4 :淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き21名死亡。・1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名死亡。・1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。
    ・1941.11.4 :湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が腺ペスト発症(エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、柴田恭子訳、河出書房新書より)
  • 「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
    南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題なのは三光作戦である。
    中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。
    これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。
    実際に北支那方面軍は、広大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのである。
    三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.18-19)

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・1940年11月、大統領選挙に勝利したルーズベルトは本格的に対中支援の具体化に乗り出した。
・1941年3月、中国とアメリカとの間に武器貸与協定が結ばれる。
●1941年6月頃、ヒトラーが捕虜収容所における大量殺害を命じた (荒井信氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)。
ただし、パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』(原書房)には ”最終解決”がヒトラーにより口頭でヒムラーとハイドリヒに下達されたとされている。
またこの指令自体は「バルバロッサ計画」の有機的な一部で1941年3月13日付けの「特別な分野のための指示」に、またSS(親衛隊)と陸軍との相互関係・相互協力を規定した1941年4月28日付の最高司令部と帝国保安本部(RSHA)との特別協定に大雑把にかかれていたという。
(パーベル・ポリヤーン『二つの独裁の犠牲者』長勢了治訳(原書房) p.102)

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★「大政翼賛」への道(1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だった)
■全政党が解党、日本から政党が消えた。
昭和15年8月15日)1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の議員と小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、陸軍と協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満ちあふれていた。
(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)

※新体制促進同志会

個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義
社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を要求した。

※ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力は一貫して存続した。
つまり彼等は戦争中にも、非政党エリートや右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、終戦時には国政に参加する準備が出来上がっていた。これは戦中政治の際立った特徴である。

■新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)

「 世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂すると共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たすためには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大事業に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立場において迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得るよう、高度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して高度国防国家の基礎は、強力なる国家体制にあるのであって、ここに政治、経済、教育、文化等あらゆる国家国民生活の領域における新体制確立の要請があるのである。
・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確立し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するものと言わねばならぬ」
( 詳しくは、ゴードン・M・バーガー著『大政翼賛会』 、坂野閏治訳、山川出版社、211~221ページ参照)

※ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早期解決が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を統一し、皇室と国家に対する国民の一体感を強め、体制エリートの諸集団が戦時動員に不可欠と考えたいかなる政策をも遂行するための手段として、新体制を発展させることだけになった。

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★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(1)
帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。
此の由由は何ものの力を以てするも剥奪することは出来ない。
政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後には政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後には国民も亦之を監視して居る。
凡そ政治上に於て是れ程強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。
尚其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きものではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。
然るに此の政治上の戦いに当たりて、政民両党は何をなしたか。
戦えば必ず勝つ。而も其目的は国民の自由を擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦うの意気なく、却って降伏に後れぎらんことを惧れて六十年の歴史をなげうち、国民の失望を無視して我れ先きにと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類例を見ざる醜態である。

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大政翼賛会発足(1940年、昭和15年10月12日発会式)

政党が解消されて、戦争にたいする異論(反対論)が完全に封じられてしまった。
※「近衛の構想の新体制」は「政治性」が取り除かれ、それに伴う近衛の変節とともに、国民精神動員運動を主軸とする運動に変化して発展することになった。
そこで新体制準備会で用意されていた「中核体」(総理大臣への顧問組織であり、職能・文化組織推進機関)は『大政翼賛会』、国民運動は「大政翼賛運動」と呼ばれるようになった。

※「国民の歌」としての指定
海行かば水づく屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめかえりみはせじかえはせじ』
※陸軍は翼賛会の地方活動を支配するために、「中核体」が持つ可能性に大きな期待をかけていた。また海軍も他の諸集団(例えば日本青年党(橋本欣五郎)、東方会(中野正剛)、青年団
・壮年団(後藤隆之助)、産業組合(有馬頼寧))も大政翼賛運動の中心的存在になることを熱望した。
(内務官僚と名望家の反発)

内務省は翼賛会府県支部の設立にあたって、知事の優越的役割を確保した。
さらに内務省は町村にその官僚的支配を伸張し翼賛会下部組織の確立によって部落会や町内会の指導権を確保しようと躍起になった。(陸軍と内務省の衝突)
※翼賛会議会局への参加を拒否したのは、鳩山派と社会大衆党社民派のみであった。

大政翼賛会は内閣・議会・軍部の関係に何の変化ももたらさなかった。
これは大政翼賛会に関して最も驚くべき点である。

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★希代の政治家、斎藤隆夫氏の(近衛文麿への)非難(2)★
次は大政翼賛会である。
浅薄なる革新論から出発して、理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして、国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設立したる発起人は疑いもなく近衛公である。
其の他のことは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国勢燮理(治める)の大任に当るなど、実に思わぎるの甚だしきものである。
是が為に国を誤り実毒をのこす。
其の罪は極めて大なるものがある。

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★軍隊というのはカルト教団
古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社
あのみじめな思いは憶えています。
軍隊では、人は人間として扱われません。
そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り立たない。
福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の下に人を作りました。
彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。
その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。
階級や差別のない社会や国家はありません。
天皇が日本のトップの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を支持する国民の一人です。
けれども、アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・
軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)

・・・
あのころ(鳥越注:昭和10年代)のわが国はカルト教団のようなものでした。
あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。
思い出すだに情けなくなります。
自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。
いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。
祖国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜の御楯だのと言う。
今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。
しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。
神風ですか。
カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。
・・・戦前(鳥越注:大東亜戦争前)は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。
日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。
そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。
やむにやまれぬ大和魂、などと言いますやなにが、やむにやまれぬ、ですか。
軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作られ、使われました。
八紘一字などという言葉もそうです。
中国に侵略して、なにが八紘一宇ですか。
統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われますしかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(p106)

#第二次世界大戦

#大東亜戦争

#ナチス・ドイツ

#大政翼賛会

#日独伊三国軍事同盟

#大本営政府連絡会議

#三光政策 ❞