kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(013)昭和12年(1937年)❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)
❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」
この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

 

プロローグ
 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)
昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞



❝USA第51州の実態(013)昭和12年(1937年)❞

❝ 目次

・スペイン内乱(1936~1939年):航空力が現実的に試された。
・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊が、バスクの山村ゲルニカを強襲空爆して死者千数百人を出して壊滅させた。
★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、論理的に 整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本の奇跡の経済成長の礎石となった戦時経済システムができあがったことは驚嘆に値することを認識しよう。
※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事の多い終講の辞より。
★歴代首相
広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)-->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)-->鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21)
★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続戦時体制の中で、戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。(広田弘毅内閣への軍部の数々の嫌がらせや組閣僚人への妨害工作
# 寺内(お坊ちゃん)大将の横やり
※平民宰相広田弘毅の苦悩(軍部大臣現役武官制の復活<--最悪!!)
※浜田国松による軍部政策批判(1937年、昭和12年1月21日)
☆ 余談 <昭和12年三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
☆ 余談 <「少国民世代」>
★ この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。
●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)
支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~):南京陥落(12月13日)
※廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣発足)
支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動だった。※陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった※日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、浦洲国(満州国?)建国以降の日本の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続けて領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなっていたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょうか。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)
※国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
※戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
※日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな死ね!!」)
[慫慂-しょう‐よう。そばから 誘い 、すすめること]
※南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。
●中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。
※中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)
・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘(1935~1937年、昭和10~12年頃)
※いやはやまったく、張作霖爆殺事件や満州事変の首謀者(石原・板垣)がよく言うよと言いたい。
●第二次上海事変(1937年、昭和12年8月13日)
★ 日中全面戦争に至り死傷者が急増した。
★ 戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いもかけない規模に拡大することになった。
★ 戦時体制下の思想弾圧
南京事件(1937年、昭和12年12月13日)
※南京攻略戦の範囲についてはS12.12.1(大本営が南京攻略を命令)から S13.1.8(南京城占領後治安回復)までと考える
藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27より)。
<この頃の右翼>
1.「観念右翼」(「日本主義者」)
2.「革新右翼

 

 

本文

・スペイン内乱(1936~1939年):航空力が現実的に試された。
都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。
爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。
航空輸送の重要性も判明。
(リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争」服部省吾訳、東洋書林より引用)
・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊が、バスクの山村ゲルニカを強襲空爆して死者千数百人を出して壊滅させた。
再建されて僅か4年のドイツ空軍力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見せつけた。

 ★1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの短期間に、突然、論理的に整合性があり、極めて効率的で、戦時中のみならず戦後日本の奇跡の経済成長の礎石となった戦時経済システムができあがったことは驚嘆に値することを認識しよう。
※国家の理想は”正義と平和”にあるという日本の良識の最高峰であった東大教授・矢内原忠雄氏は、度重なる言論弾圧により昭和12年12月2日、最終講義を終えて大学を去った。以下学ぶ事の多い終講の辞より。 

植民地領有の問題をとって考えてみても、種々の方面から事をわけて考えねばならない。
研究者は一定の目的を以て行われている現実の政策をも学問的に見て、それが正しいかあるいは利益があるかを決すべきであり、実行者がやっているの故を以てそれを当然に正しいとか利益があるとかいうことは出来ない。
・・・大学令第一条には大学の使命を規定して、学術の蘊奥(うんおう。学問・技芸などの最も奥深いところ。奥義。極意。)並びにその応用を研究し且つ教授すること、人格を陶冶(とうや。人間形成)は、すること、国家思想を涵養(かんよう。水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること)すること、の三を挙げている。
その中最も直接に大学の本質たるものは学問である。
もちろん学問の研究は実行家の実行を問題とし、 殊に社会科学はそれ以外の対象をもたない。
また学問研究の結果を実行家の利用に供すること、個々の問題について参考意見を述べること等ももとより妨げない。
しかしながら学問本来の使命は実行家の実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤めることではない。
現在は具体的政策達成のためにあらゆる手段を動員している時世であるが、いやしくも学問の権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。
ここに大学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する。
大学令に「国家思想を涵養し」云々とある如く、国家を軽視することが帝国大学の趣旨にかなわぬことはもちろんである。
しかしながら実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分け得ぬような人間は大学教授ではない。
大学において国家思想を涵養するというのは、学術的に涵養することである。
浅薄な俗流的な国家思想を排除して、学問的な国家思想を養成することにある。
時流によって動揺する如きものでなく、真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把握しなければならない。
学問的真実さ、真理に忠実にして真理のためには何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い意味の国家思想、そのような頭の持主を教育するのが大学であると思う。
国家が巨額の経費をかけて諸君を教育するのは、通俗的な思想の水準を越えたところのかかる人間を養成する趣旨であることを記憶せよ。
学問の立場から考えれば戦争そのものも研究の対象となり、如何なる理由で、また如何なる意味をそれが有つかが我々の問題となる。
戦争論が何が故に国家思想の涵養に反するか。
戎る人々は言う、私の思想が学生に影響を及ぼすが故によくないと。
しかし私はあらゆる意味において政治家ではない。
私は不充分ながらとにかく学問を愛し、学生を愛し、 出来るだけ講義も休まず努力して来ただけで、それ以外には学生に対して殆んど何もしなかった。学生諸君の先頭に立つようなことは嫌いだった。
しかし私がこうして研究室と教室とに精勤したということがよくないというなら、それは私の不徳の致すところだから仕方がない。
私は不充分ながら自分が大学教授としての職責をおろそかにしたとは思わない。
しかし私の考えている大学の本質、使命、任務、国家思想の涵養などの認識について、同僚中の数氏と意見が合わないことを今回明白に発見したのである。
もっとも、意見の異る人々の間にあってやって行けないわけではない。
いろいろの人々、いろいろの傾向が一つの組織の中に統一せられることは、大学として結構であり、学生に対しても善いのである。
考えや思想が一色であることは、かえつて大学に取って致命的である。
故に私は他の人々と意見が異うからという理由で潔癖に出てゆくわけではない。
私は何人をも憎みまた恐れるわ けではない。
地位を惜しむものでもなく、後足で砂をかけ唾を吐いて出てゆくのでもない。
私は大学とその学生とを愛する。
私はゴルフをやるでなし芝居を見るでなし、教室に来て諸君に講義し諸君と議論することが唯一の楽しみであった。
それも今日限りで、諸君と、また諸君の次々に来る学生等と、相対することも出来なくなるのだ。
しかし私の思想が悪いというので大学に御迷惑になるとすれば、私は進んで止める外はないのである。
私の望むところは、私が去った後で大学がファッショ化することを極力恐れる。
大学が外部の情勢に刺戟されて動くことはあり得ることであり、また或る程度必要でもあろうが、流れのまにまに外部の動く通りに動くことを、私は大学殊に経済学部のために衷心恐れる。
もしそういうことであるなら、学問は当然滅びるであろう。
・・・現象の表面、言葉の表面を越えたところの学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。
これが私の信念である。
諸君はこれを終生失うことなくして、進んで行かれることを望む。
私は大学と研究室と仲間と学生とに別れて、外へ出る。
しかし私自身はこのことを何とも思っていない。
私は身体を滅して魂を滅すことのできない者を恐れない。
[聖書 マタイ10・28-31 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。 むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい]
私は誰をも恐れもしなければ、憎 みも恨みもしない。
ただし身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。
諸君はそのような人間にならないように……。
矢内原忠雄氏著『私の歩んできた道』 日本図書センター、pp.106-110)
  
 ★歴代首相
広田弘毅(S11~12)-->林銑十郎(S12)-->近衛文麿(S12~14、第1次)-->平沼麒一郎(S14)-->阿部信行(S14~15)-->米内光政(S15.1.16~S15.7.16)-->近衛文麿(S15~16、第2~3次)-->東条英機(S16~19)-->小磯国昭(S19~20)--> 鈴木貫太郎(S20)-->東久邇宮稔彦(S20)-->幣原喜重郎(S20~21)

★ここまで発展してきた医師会も日中戦争から、大東亜戦争へと続戦時体制の中で、戦争遂行のための国家総動員体制の中に組み込まれた。(広田弘毅内閣への軍部 の数々の嫌がらせや組閣僚人への妨害工作
# 寺内(お坊ちゃん)大将の横やり
「これには(閣僚予定者)、民政・政友の両党から二名ずつ大臣が入っている。これでは政党政治に他ならない。政党出身者は各党一名に限ると、軍からかねがね希望していたはずであり、一名ずつに減らさぬ限り、軍は承知できない。陸軍大臣を辞退する」(この時陸軍は、新大衆政党結成と陸軍大将林銑十郎(はやしせんじゅうろう)ないし近衛文麿(このえふみまろ)内閣樹立を画策していた。-->●荻窪会談(1940年昭和15年7月19日。公爵近衛文麿が私邸(荻外荘)に於いて開いた会談)、昭和36年~37年(?)、林銑十郎、安保清種海軍大将、結城豊太郎(銀行家)、小原直(岡田内閣相)、永井柳太郎(民生党)、前田米蔵(政友会)、中島知久平(政友会)、山崎達之輔(政友会-->昭和会)、後藤文雄(文官)、有馬頼寧(産業組合)ら)

※平民宰相広田弘毅ひろたこうき)の苦悩(軍部大臣現役武官制の復活<--最悪!!) 
広田弘毅二・二六事件に対して粛軍を断行した。
しかしこれは軍部内部の派閥争い(統制派による皇道派締め出し)に利用され、軍部が全面的に反省の意を示したことにはならなかった。
そればかりか、陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部大臣現役武官制)への復帰」という提案が出され 、広田弘毅は「現役将官のなかから総理が自由に選任できる」ことを条件にそれを認めた。
しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制のもとでは、どんなときにも陸軍主導の内閣を作ることができるようになってしまった。
広田弘毅は、このことを軍部暴走の追随として後の東京裁判で弾劾されることになった。さらに彼は当時の悪名高い愛国主義団体(アジア主義を掲げる国家主義的団体)”黒龍会(首領:頭山満)”の親睦団体である”玄洋社”で、青年時に教育されていた。この事実も彼の判決に不利に作用した。歴史は皮肉なものである)。

※浜田国松による軍部政策批判(1937年、昭和12年1月21日)
政友会、浜田国松は第70議会(広田内閣、寺内陸相)において、軍部の改革案と政策決定への軍の関与に対して激しく批判した。
# 「独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々として軍の底を流れ、時に文武烙循(らくじゅん)の堤防を破壊せんとする危険あることは国民の均しく顰蹙(ひんしゅく)するところである」
(--->広田内閣は致命的な分裂へ)

 # 「軍部は野放しのあばれ馬だ。それをとめようと真向から立ちふさがれば、蹴殺される。といって、そのままにしておけば、何をするかわからん。だから、正面からとめようとしてはだめで、横からとびのって、ある程度思うままに寄せて、抑えて行く他はない」 (以上、城山三郎氏著『落日燃ゆ』より部分的に引用)
           
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 ☆ 余談 <昭和12年三木清『学生の知能低下について』(文藝春秋5月号)>
昔の高等学校の生徒は青年らしい好奇心と、懐疑心と、そして理想主義的熱情をもち、そのためにあらゆる書物を貪り読んだ。・・・しかるに今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の、生年らしい好奇心も、理想主義的感情も、彼等の前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されてゐる。・・・或る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆ど何等の社会的関心もの(も)たずにただ学校を卒業しさへすれば好いといふやうな気持ちで大学へ入ってくる。それでも従来は、大学にはまだ事変前の学生が残ってゐて、彼等によって新入生は教育され、多少とも社会的関心をもつやうになり、学問や社会に就いて批判的な見方をするやうになることができた。しかるに事変前の学生が次第にすくなくなるにつれて、学生の社会的関心も次第に乏しくなり、かやうにして所謂「キング学生」、即ち学校の過程以外には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると云はれる。  (文藝春秋 2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』より)

 ☆ 余談 <「少国民世代」>
少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後から10代前半であった。
敗戦時に31歳だった丸山(筆者注:丸山眞男)など「戦前派」(この呼称は丸山らの世代が自称したものではなかったが)はもちろん、敗戦時に25歳だった吉本など「戦中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗りつぶされて育ったのが、この「少国民世代」だった。
1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接試験で出された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載されている。
「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所はどこですか。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな感じがしますか。では、どうしなければなりませんか」。「米英に勝つにはどうすればよいですか。君はどういうふうに節約をしていますか」。「日本の兵隊は何と言って戦死しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。どうすれば恩を返す事ができますか」。
こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫理的な問いを突きつけ、告白を迫るものだった。
小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)


★ この後広田内閣が倒れて、首相選びと組閣は混迷を極めた。
軍人(幕僚派)の横暴、横やり、いやがらせが続き、結局大命は林銑十郎(せんじゅうろう)に下った。
林銑十郎の組閣も陸軍、海軍、官僚が幕僚派、満州派(石原莞爾十河信二板垣征四郎池田成彬、津田信吾)に分かれて次々と容喙(ようかい。横から口出しをする)し、「林銑十郎内閣は支那と戦争しないための内閣だ(石原莞爾)」という言葉にこめられた対中融和政策が永遠に葬られた。(昭和12年1~2月)

●文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)。
橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなかで興味深い指摘をしている。次のようにである。               
「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主体ということと同時に、その主体のさまざまなアピールに応える共鳴盤といいますか、そういったものを合わせて考えないと、推進力という問題はでてこないのではないかと思います。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体的に申しますと、農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあたるわけです。はじめから右翼的な団体があって、それがそのままファシズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の側、あるいは中間層、その層にいろいろ問題があったわけです。だからこそファシズムという一つの統合形態を生みだしえたと考えるほうが妥当ではないかということです」
共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動かすグループと「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山彦のようにこだまして反応しあうその状態といっていいのではないか。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.126-127)

「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易 (ばんこふえき。永久に変わらない)の国体を闡明(せんめい。明瞭でなかった道理や意義を明らかにする)し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すベきである」
この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふれている。
現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽象的、精神的な表現に驚かされるのだが、なによりも天皇神格化を軸にして、臣民は私を捨てて忠誠心を以て皇運を扶翼し奉ることがひたすら要求されている。昭和十二年四月には、この冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大学などのほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。
この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史『皇国二千六百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に打ちだしてのナショナリズム滴養の書であった。
橋川文三がその書(『昭和ナショナリズムの諸相』)で説いたように、まさに共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。
保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)

「明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝにすべての私心の穢(けがれ)は去って、明き正しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となって現れ、身を捨てて国に報ずる心となって現れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が国に於いては、昔より黒(きたなき)き心、穢れたる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることに努めて来た」
こういう説得が、この『国体の本義』の骨格を成している。(保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.139-140)

支那事変(日中戦争、1937年、昭和12年7月7日~):南京陥落(12月13日)
※廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣発足)
北京郊外の廬溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊第三大隊が、国民党軍から発砲を受けた。
当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石南京政府(国民党)と共産党、冀察(きさつ)政権(日中間の緩衝政権。宋哲元政務委員長)三者のきわめて微妙なバランスと相互作用の上に形成されていた。(なお国民党はナチス・ドイツと極めて緊密な関係にあり、同時に日本は日独伊防共協定の締結国として大事な政治上のパートナーであって、日中が対立することはドイツの世界戦略にとって頭痛の種となっていた)
支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権(国民党)に対する軍事行動だった。日本はあえて「支那事変」と称した。
それは「戦争」と宣言した場合主として米国が日本に対する物資の輸出を禁絶するであろうと虞れたからである。(瀬島龍三大東亜戦争の実相』より)
※陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾(かんじ)だった。
石原は作戦課長の武藤章らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡大派となっていた。
#「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命令が、いつも裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にしてやられたのだ」。
日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、浦洲(満州?)国建国以降の日本の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続けて領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなっていたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょうか。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)

※国家至上主義の台頭(軍人の思い上がり)
天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」。
※戦争拡大派:見よ!、ワルどものオン・パレードを!!
南次郎(朝鮮総督)、小磯国昭朝鮮軍司令官)、東条英機関東軍参謀長)、富永恭次辻政信(いずれも東条英機の輩下)、寺内寿一、梅津美治郎牟田口廉也陸軍省の大部分の阿呆ども(田中新一(陸軍省軍務局軍事課)、武藤章陸軍省軍務局作戦第三課、この男は"悪魔の化身"といっていい)、陸軍大臣杉山元など)

近衛文麿広田弘毅
※日本史上最悪の悪魔の歌の慫慂(「軍人も国民もみんな死ね!!」)
海行かば水づく屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ』どうだ!!、この国のばけものどもが、国家をあげて慫慂(しょうよう。そうするように誘って、しきりに勧めること)したこの 歌の非人間性を、こころ行くまで味わい給え!!。
(当時の兵隊さんは、「海に河馬、みみずく馬鹿ね・・」と揶揄 していたが・・・)
※南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。             

・<余談1>
日中戦争勃発とともに日本から人気女流作家が中国に取材に出かけた。
吉屋信子(「主婦之友」より、昭和12年8月)と林芙美子(「東京日々新聞」より、昭和12年12月)だった。
・<余談2>
昭和12~13年にかけて、スターリン赤軍参謀長トゥハチェフスキー以下の赤軍将校5000人を国家反逆剤で死刑にした。
津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.19)
トラウトマン工作昭和12年11月)の失敗
中国側に対する余りにも身勝手で横暴な和平条件に蒋介石は回答せず。
・「通州事件」(1937年、昭和12年7月29日)
冀東政権(冀東防衛自治政府=日本の傀儡政権)の保安隊が日本軍の誤爆(保安隊兵舎の誤爆)の報復として日本の守備隊、特務機関、一般居留民を200人あまり虐殺した。当時の「支那に膺懲を加える」というスローガンはこの事件がきっかけだった。
川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)・”後方勤務要員養成所(後の中野学校)”が陸軍兵務局内に設立された。(1937年12月)(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.46)

●中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。
※中国における排日抗日の気運の昂揚
(「救国抗日統一戦線」)
・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘
(1935~1937年、昭和10~12年頃)
(注意:石原は以前、関東軍次級参謀として満州事変の企画立案をした)
#「支那と戦争しちゃいかん」
#「日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支(日本、満州支那)結合してして大工業 を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争は できない」
#「支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、 日本は滅びる」
(以上、井本熊夫氏(元東条英樹秘書官)へのインタビュー(『沈黙のファイル』、共同通信社編)より引用)

※いやはやまったく、張作霖爆殺事件(1928年。昭和3年6月4日)や満州事変(1931年。昭和6年9月18日)の首謀者(石原・板垣)がよく言うよと言いたい。
ただし、この頃の参謀本部では石原や参謀次長の多田駿、戦争指導班の秩父宮、今田新太郎、堀場一雄、高嶋辰彦らは、軍事的に冷静な目をもった良識派だった。
中国の目まぐるしい政変と経済的復興に伴い、日本の対中姿勢も転換を余儀なくされていた。

●第二次上海事変(日中全面戦争。1937年、昭和12年8月13日)
中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。
指揮官はアメリカ軍人シェンノート(宋美齢の要請)。
しかし中国空軍は租界を誤爆(?)したり、着陸失敗など惨憺たる有様だった。
西欧諸国はこの誤爆を全て日本の責任として報道、日本は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国はついに蒋介石支援を決意した。
結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意欲、ドイツの協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の蒋介石政権への固い支持が明らかになった。
しかし参謀本部はこの脅威を一顧だにしなかった。
このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編成され、昭和12年8月14日に派遣が下命された。
蒋介石は15日に総動員令を発動し、大本営を設置、陸海空軍の総司令官に就任。
これより日中衝突は全面戦争へと発展した。
昭和12年11月までに死傷者は4万余に達した。
      
 ★ 日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲(ようちょう。征伐してこらしめる)」などという安易なスロー ガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこまれていった国民が、憤激したのは当然だった。
しかしこのような事態にたいし、政府は国民の 精神、気分自体を統制しようと試みはじめた。
近衛首相は上海事変たけなわの9月 11日に、日比谷公会堂で国民精神総動員演説大会を開催、事変への国民的な献身 と集中を呼びかけた。
9月22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議 決定された。
10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の 代表を理事に迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟が結成された。(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より要約)

  ★ 戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いもかけない規模に拡大することになった。
とくに上海に戦火が波及してからの激戦で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなければならなくなった。
このため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかった規模にふくれ上った。
もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。
中国との戦争が拡大 しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。
そして対ソ用の現役師団をなるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設師団を多数動員した。
特設師団というのは現役2年、予備役5年半を終了したあと、年間服する年齢の高い後備役兵を召集して臨時に編成する部隊である。
1937年後半から38年にかけて、多数の特設師団が中国に派遣されることになった。
現役を終ってから数年から十数年も経ってから召集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたというこ とになる。
また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。
「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。
上海の激戦で生じた数万の戦死者の多くが、こうした後備兵だったのである。
それだけに士気の衰え、軍紀の弛緩(しかん)が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大による素質の低下、士気、軍紀 の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発させる原因を作ったといえる。
藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.15)

  ★ 戦時体制下の思想弾圧
日中戦争の長期化は国内の戦時体制強化を促し、戦争に対して非協力的であったり、軍部を批判する思想・言論・学問は弾圧・排除の対象となった。
日中戦争勃発4か月後の1937年11月には、ヨーロッパの反ファシズム人民戦線運動を紹介した中井正一らの『世界文化』グループが検挙され、『世界文化』は廃刊となった。
翌12月、コミンテルンの人民戦線戦術に呼応して革命を企図して いるとして、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎ら約400名が一斉検挙され、日本無産党・日本労働組合全国評議会は結社禁止となった(人民戦線事件)。
次いで、翌38年2月には、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グループが検挙され、治安維持法違反で起訴された(教授グループ事件)。
(松井慎一郎氏著『戦闘的自由主義者 河合榮治郎』社会思想社、p.193より)

南京事件(1937年、昭和12年12月13日)
※南京攻略戦の範囲についてはS12.12.1(大本営が南京攻略を命令)から S13.1.8(南京城占領後治安回復)までと考える(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27より)。
また南京大虐殺に関する論争やいやがらせなどについては笠原十九司氏の『南京事件三光作戦』(大月書店)という名著がある。
一読されたい。
[「証言・南京事件三光作戦」南京占領に伴う入城式に備えて、徹底した敗残兵の掃討作戦が行なわれた。当時の従軍記者や将兵らによる生々しく衝撃的な証言の数々から見えてくるものとは何か…。また、南京以外でも行なわれた燼滅作戦、つまり完膚なき殺戮と破壊そして略奪を旨とした「三光作戦」の全貌を証言で再現する。]

https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件論争史
※当時の外相広田弘毅は特にこの事件のため後の東京裁判で文官としてただ一人死刑になった。

奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥で獰猛な軍人のなせるわざであった。米内海相、広田外相の外交上の苦労推して知るべしであろう。(なお外相広田弘毅は和平に熱心ではなかったという説もある。最近の文献では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)

1937年(昭和12年)11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のままで、宣戦布告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)は、その上司多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京其ノ他ヲ攻撃セシムルコトヲモ考慮シテ居リマス」という説明文を加筆した。
参謀本部の秩序は酷く紊乱(びんらん。秩序・風紀などが乱れる)していた。
当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘(せいちゅう。わきから干渉して、人の自由な行動を妨げること)を受けない軍にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして最後の倫理の基盤であったはずだ。
それがかような形で侵されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、暗然とせざるをえない事態であった。
南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途がまったく立たなくなるということさえ予見できない無知無能連中が参謀本部を支配していた。

<この頃の右翼>
1.「観念右翼」(「日本主義者」)
競争的政党制と選挙手続きを否定。
あらゆる対立政党を解消して、天皇に議員選挙権を奉還し、衆議院に政府との共和を表明する新たな単一勢力を樹立しようとした。
時の枢密院議長平沼麒一郎(国粋主義的色彩の強い国本社の主宰)がその中心人物だった。
2.「革新右翼」日本をナチやファシストのような全体主義の国にしようと画策。中野正剛(東方会)、橋本欣五郎陸軍大佐、末次信正(内相)らが際立った指導者だった。
さらに、かつての左翼運動に中心的存在であった「社会大衆党」もこの「革新右翼」の一翼というべき様相を呈した。

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