kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(014)昭和13~14年(1938~1939年)❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎

(H26年4月17日一部改定)

http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。

学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ

 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。

一体それはどこから来るのだろうか?。

小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。

 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。

いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。

 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。

( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。

日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。

記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。

また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。

天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

❝USA第51州の実態(014)昭和13~14年(1938~39年)❞

目次

❝●近衛(文麿)最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対手とせず・・」これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)
※当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争指導班の高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
石原莞爾満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)
近衛文麿の正体>
●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
精神障害兵士の問題
●「国家総動員法」が正式に公布された(1938年、昭和13年4月1日)
※「国家総動員法」の内容
<「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ>
大本営の特設:天皇統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関として参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように設置。
単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調整及び陸海軍の策応協同を適切敏活ならしめる。
※「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
※「御前会議」:天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をいう。
日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
■厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)
●南京攻略後は慰安婦が制度化された。
・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年
・「ペン部隊」:昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍作家を組織した。
・張鼓峰事件(ハーサン湖事件、1938年、昭和13年8月)
・陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(1938年、昭和13年9~10月)

蒋介石重慶を戦時首都とした(1938年10月)。
●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために精神総動員を強化する計画を提出(1938年、昭和13年11月26日)
ケマル・アタチュルク逝去(57歳)(1938.11.10、AM09:05)
●中支那派遣軍の身勝手で傲慢な発言(1939年、昭和14年1月)
●「国民徴用令」が閣議決定にて公布、施行(1939年、昭和14年
ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
独ソ不可侵条約締結(1939年、昭和14年8月28日)
スターリンの実像を垣間見る>
モロトフ・リッペントロップ秘密協定

第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
ヒトラー「T4作戦」を命令(1939年10月)
アメリカが原爆開発に着手(1939年、昭和14年10月)
●「創氏改名」(1939年11月)
●日本軍の毒ガス散布の一例(1939年、昭和14年12月16日)

 

❝USA第51州の実態(014)昭和13~14年(1938~1939年)❞

 

 

本文

❝●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対手とず・・」これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)
しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であったことは明らかである。

※当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争指導班の高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
石原莞爾満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)「・・私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、これは戦いを止める方がいいといった。
やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思った。
然しどちらもやりません。
ズルズル何かやって居ます。
掛声だけです。
掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。
・・私は3か月振りで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。
満州も絶対にいいことはありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひます。
阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人がありますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」
福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

---------------------<近衛文麿の正体>---------------------

(戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り角があるたびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていたこと、しかもこのような重大な曲り角の一つ一つでかれの決定がいつも、侵略と軍およびその文官同盟者が国を抑えこむ万力のような締めつけとを支持したことを明らかにせずにはいない。
近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめは、かれだけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の有力な各部門、宮廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させたことであった。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)

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当時朝日新聞記者であった、むのたけじ武野武治)氏は「自分に都合の悪い質問を受けたりすると、不快感をむき出しにして、顔にも足にも表現した・・・この人は、自分以外の何千万人にもかかわる責任ですら、ある日ぽいと捨て去るのではないか、と不安になったんです」と言う。(むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.21)

  • 三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
    ・輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分
    ・臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入の規制
    ・軍需工業動員法
    ※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。
    (S13.2、近衛内閣)
    斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員ならびに非常時における国民の権利と義務の規制などの問題は、ひとり天皇のみが扱いうるものであることをはっきりと主張して国家総動員法案の議会通過に反対した(憲法天皇主権を楯にした)。
    精神障害兵士の問題
    1938年、国府陸軍病院(現、国立精神・神経センター国府台病院)が全陸軍の精神障害兵士の診療・研究の中心をなす<特殊病院>として改組された。(清水寛氏著『日本帝国陸軍精神障害兵士』不二出版、p.80)
    ●「国家総動員法」が正式に公布された(1938年、昭和13年4月1日)「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
    (同時に「電力国家管理法」も公布された)

※「国家総動員法」の内容国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の生産・配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限できる、貿易を制限できる・・・つまり戦争のために国民はもっている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡すというもの。

・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所により×××することを得る」
("×××"の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)
半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)
******* <「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ> *******

Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK日曜討論』(2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民 党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々 が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持してるわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけで」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。

「資源というのは消費するものですよね。人間を資源というのはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れてい ると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見抜いたのだ。
そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」と いう言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに出てくるのがわかったと知らされた。

確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」される対象として物資と一緒くたに扱われている。
「人的資源」の発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法にあるのだ。
戦前~戦中~戦後を通じて国家の非情な本質は連 続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなければならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)❞

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❝※この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその後8年間の政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の役割がかつてないほどまでに低下した)ことには疑問の余地がない。
統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領した」(司馬遼太郎)。

※軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚・戦争協力を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術展」、アホクサ!!)

■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をはじめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞましい時代だった。

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大本営の特設:天皇統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関として参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように設置。
単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調整及び陸海軍の策応協同を適切敏活ならしめる。(大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた)

※「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
(「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)
戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外交、財政、教育)の統合と調整を行うために天皇を輔佐する固有の国家機関は当時、法的にも実質的にも存在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争指導」に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府連絡会議」が設置された。

※「御前会議」:天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をいう。

枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立場で出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。(以上、瀬島龍三大東亜戦争の実相』より引用)     +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)

■厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)
内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。
(--->この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)

・1938年、里見甫は上海の陸軍特務部から阿片配給組織をつくるよう命令された。
--->「宏済善堂」(「火煙局」=「里見機関」)
※阿片販売は日本政府・軍部の国家的プロジェクトだった。
岸信介東条英機はアヘンで繋がっていたという話もある)
※阿片に関与したものども原田熊吉、畑俊六、里見甫、福家俊一、塩沢清宣、児玉誉士夫(田中隆吉の供述より)。

  • 南京攻略後は慰安婦が制度化された。
    ・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年
    数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。
    彼らは後にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に達したら関東軍に召集された。
    ソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフ大将が満州国に亡命リュシコフによれば満ソ国境のソ連軍は飛行機2000機、戦車1900輛に達していたが、関東軍はそれに対して飛行機340機、戦車170輛だった。
    しかし関東軍はこの大きな差に対し何も対策を立てなかった。
    最後の死を恐れない白兵戦と大和魂に根ざす感情的な強がりが、このあとのノモンハン事件の大惨敗の伏線になった。

・「ペン部隊」:昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各班約10名、女性1名ずつ)。

陸軍班:久米正雄尾崎士郎片岡鉄兵岸田国士瀧井孝作丹羽文雄林芙美子
海軍班:菊地寛、小島政二郎佐藤春夫杉山平助吉川英治吉屋信子ら(川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)

・張鼓峰事件(ハーサン湖事件、1938年、昭和13年8月)
ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっとした思い付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの日本人兵士が無駄に死んでしまった。
参謀本部作戦課は火遊び好きな幼稚なものどもの集まりだった。

※田中隆吉中佐の述懐
「私の連隊は、野砲、山砲、垂砲合計36門を装備していた。二百数十門のソ連砲兵隊と射撃の応酬をしたが、敵の弾量の豊富なことはおどろくばかりで、こちらは深刻な弾丸不足に悩むばかりであった。
どれほど旺盛な精神力をもってあたっても、強大な火力のまえには所詮蟷螂の斧であることを、身をもって知った。
私は日本陸軍のなかで、日露戦争以後、近代装備の砲兵と戦った最初の砲兵連隊長である。張鼓峯の一戦のあと、私は日本の生産力をもって、近代戦をおこなうのは到底不可能であると、上司にしばしば意見を具申したが、耳をかたむけてくれる人はいなかった」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.24)
・陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(1938年、昭和13年9~10月)日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。
※近衛内閣(ことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣であった)「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」「抗日容共政権を殱滅する」「蒋介石政権は中国全土を代表せず」

蒋介石重慶を戦時首都とした(1938年10月)。
1938年2月からの約5.5年、日本軍は重慶に無差別爆撃を繰り返した。
●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために精神総動員を強化する計画を提出(1938年、昭和13年11月26日)
※情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織(青年団在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる強力な動員機構を樹立しようとした。これこそは国民を一気に「統合」しようとする構想であった。

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ケマル・アタチュルク逝去(57歳)(1938.11.10、AM09:05)約20年前、オスマン・トルコ帝国は無謀な世界戦争を挑んで敗北し、国土は白人列強によって分割解体されようとしていた。そして殆どの国民が飢えと病気に苦しめられ、何よりもすべての希望を失っていた。
しかし「灰色の狼」が彗星のように現れた。彼はどんな苦難にも負けなかった。彼は国民を叱咤激励し、ついに侵略者と売国奴を打ち破り祖国を守り抜いた。(三浦伸昭氏著『アタチュルク』文芸社、pp.446-447)

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●中支那派遣軍の身勝手で傲慢な発言(1939年、昭和14年1月)
「今事変は戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は国際慣例の認むる所」(加藤陽子氏著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、p.20-21)
・日本軍海南島占領(1939年、昭和14年2月)
●「国民徴用令」が閣議決定にて公布、施行(1939年、昭和14年
帝国臣民を徴用して、戦争遂行のための総動員業務に従事せしめるというもの。
こういうものが簡単に閣議決定のみで公布、施行された時代があったのだ。
・「満州開拓青少年義勇軍」計画(1939年、昭和14年4月29日)
・日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月):近代戦の最も恐るべき実例がアメリカの雑誌『ライフ』で提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をうけた。
以来アメリカの世論は大きく動いた。
・「梅機関」設置(1939年、昭和14年5月)
王兆銘を上海に迎えるため、参謀本部影佐禎昭大佐によって設置された。この「梅機関」は中野学校卒業生や憲兵隊を招いて上海で本格的なインテリジェンス活動を行った。(小谷賢氏著『日本軍のインテリジェンス』講談社選書メチエ、p.61)

  • ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
    関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の近代陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。
    中には責任を押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。
    (「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたちを参照)# 第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たちの起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいった・・。 (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)

<特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>
(師団長園部和一郎中将の親書より)
「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思ったのは、第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫も計画的らしきところのなき感を深くしたこと。
第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はでたらめなるように思われ、第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。

第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。
要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべからざる大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条件をもって渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なりと愚考致したる次第なり」 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)
# ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていたのは、敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象を与えるために、情報を混乱させる問題である。
このため、各部隊には、「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。構築された防衛施設についての嘘の状況報告と技術物資の質問表とが手渡された。
全軍の移動は夜間にだけ行われた。待機位置に集結される戦事の騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関銃掃射の騒音によってかき消された。
日本軍には、我が諸部隊によって、前線中央部が強化されつつあるかのような印象を与えるために、前線中央でだけラジオ放送が行われた。
前線に到着した強力な音を立てる放送所は、くい打ちの擬音を放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやっているかのように見せかけた。
日本兵には戦車の騒音に慣れっこにさせるために、襲撃前の10~12日間は、消音装置をはずした自動車何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。
こうした方策すべては極めて効果的であることが明らかになった。
日本軍司令部は、我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってしまった。
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ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送したのみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ(田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子のいるところへ帰りなさい。
馬鹿な戦争をして何になるのですか。
命あっての物種、将校は商売だ」などと戦線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」という。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)❞

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❝(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.49-50)
# 信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じである」とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問を抱かなかった。
現場の部隊も同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であった。
戦車戦術の教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたのである。
じつに昭和前期の日本はおかしな国であった。
司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)

# 幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、ソ連の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであった事実は、何を意味するものであるのか。
頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現実を正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織社会の遊泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況に対応するには歯車が噛みあわず、空転することになる。
辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめるまで、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の感覚などという段階ではなく、近代戦についての知識がまったくといっていいほど欠落していることに気づいていなかった。
日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組織の内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家のような官僚的軍人を産みだしていたのである。
時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘しているあいだに、日本軍も時代遅れになった。
歩兵戦闘において世界に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器を備えた敵国の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこめば勝利できるという錯覚を、いつのまにか抱くようになっていたのである。
津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)

# 鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数の若い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるような、無責任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想像すれば、鳥肌が立つ。
彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国軍の中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりない参謀であった。
罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、なぜ負けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥じるところがないのか。
作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊を、将棋の駒としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼らの胸中を疑わざるをえない。
津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)
# ・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名の前に立ちふさがる。
将兵の瞳孔は恐怖のために拡大しているようであった。
辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。       
「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連隊長、軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下し、手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。
津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)

# 停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任隠しのため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させられた。
歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)の3名だった。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)
# 日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さ
はじめに忘れないうちに----一つ、特徴的なエピソードを述べておきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、仝満洲戦線の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で解任されたという、驚くべきニュースを受けとった。
ところが、それにすぐそれに続いて、ハルハ河で全滅した第六軍団司令官小松原将軍が勲章を受けとった。
何勲章だったか、青銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だったか、黒いトビだったかの。
その頃の日本配層の心理のある特性を考えに入れなければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。
小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じられたその次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲へと飛び去った。
捕虜となった将校たちが証言していたころによると、表向きは、満洲の奥へとさらに前進して行く我が軍に反撃を準備するたであったかもしれないが、じつは、単に自分が助かるためだったようだ。

・・・小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何もなく、大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち鉄道大隊2個、若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれかの連隊の残党、独立警察連隊ーーこれらの手勢をもって、我が軍からかなり離れたところに防禦線を敷いた。
たぶんその頃の実際の力関係を考えてであろうが、それはとても防御とは呼ぺぬ、名ばかりの防禦であった。・・
かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した「見事な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかして、すこぶる英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師団を、むざむざ絶滅の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍は、本当ならば、日本の誠実の概念からすれば、突然勲章など受けとるかわりに、腹切りをすべきだったのだ。
・・・はっきりしていることは、日本軍部というものは、その特有の精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無防備の前線を目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、他国の領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろう。
もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエト・モンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。
その時点で、それをやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小松原将軍だけだった。
一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官の軍功のものがたりはこのように見える。
(シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

# 「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ 死にもしなかった。
いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。
議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る の想いを抱いたものであった。
・・・それからもう何十年もたった。
この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてきた。
そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。
・・・およそ何のために戦ったのかわからない ノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な 都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人々が死に、あっさりと収束した。・・・」
半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)

※この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされることなく大東亜戦争が指導された。
過去に学ばない無知無能の関東軍であった。
独ソ不可侵条約締結(1939年、昭和14年8月28日)(--->第二次世界大戦へ)
日本では対ソ戦の有利な戦いを練るために、ドイツと軍事同盟を結ぼうかと盛んに議論している最中に、ヒトラースターリンが手を結んでいた。

スターリンの実像を垣間見る>
同志諸君!
十月革命の偉大なる大義は無惨にも裏切られてしまった…
何百万もの罪なき人民が投獄され、いつ自分の番が回ってくるか知るよしもない…同志諸君は知らないのか。
スターリン一味はまんまと極右(ファシスト)クーデターをやってのけたのだ! 社会主義はもはや新聞の紙面に残っているだけだ。
だが、その新聞も絶望的なほど嘘にくるまれている。スターリンは真の社会主義を激しく憎悪するがゆえに、ヒトラームッソリーニと同じになった。己の権力を守るためなら国家を破壊し、残忍なドイツ・ファシズムの格好の餉食にしてしまうのだ…・。
この国の労働者たち(プロレタリアート)はかつてツアーと資本家どもの権力を打ち倒した。
ファシストの独裁者とその一味も打倒できるはずだ。
社会主義を目指す闘いの日、メイデーよ、永遠なれ!
ファシスト労働者党
(マーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』阪本芳久訳 草思社、p.252 )
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モロトフ・リッペントロップ秘密協定この独ソ不可侵条約締結の際にスターリンの側近のソ連外相モロトフナチス・ドイツの外相リッペントロップの間に結ばれた秘密協定で、ポーランド分割、沿バルト三国エストニアラトビアリトアニア)とモルダビアをソ連に割譲することなどが取り決められていた。この中にはスターリンヒトラーの醜悪極まりない政策がはっきりとみてと れる。(佐藤優氏著『自壊する帝国』新潮社、pp.153-155)
・「朝鮮戸籍令改正」(1939年、昭和14年12月26日)
日本人として暮らす朝鮮人に「創氏改名」を強制
創価教育学会が教育団体から宗教団体(現世利益を強調)へと性格を変えるようになった(--->勢力拡大)。
第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間にドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリス・フランスとの戦いに入った。
※われわれはヒトラームッソリーニを欧米人なみにののしっているがそのヒトラームッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるのだろうか。
司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他より引用)

  • ヒトラー「T4作戦」を命令(1939年10月)
    戦争遂行に不用と思われる、知恵遅れ・精神障害者をガス殺によって安楽死させた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.141)
  • アメリカが原爆開発に着手(1939年、昭和14年10月)「ウラン諮問委員会」を設置した。
  • 創氏改名」(1939年11月)
    朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月実施)。
    ※ 「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんたたちは、何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた朝鮮、朴の名前を、変な日本名の木村に切り替え使わせているのか!!」木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。
    しかし、1940年2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本式の氏を新しく創り、名乗らせることを事実上強要したのである。
    同年8月までの半年で、全世帯の8割、322万人が創氏した。
    儒教を重んじる朝鮮では、家をとても大切にする。
    創氏改名は、何百年も続いてきた自分の家系、祖先を否定される屈辱的な行為だった。
    呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。
    「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかったからだろう。バカにしているからだ!!」
    何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情でトウタを睨んだ。「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」
    母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかった。
    神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)
    ●日本軍の毒ガス散布の一例(1939年、昭和14年12月16日)
    尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)
    かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒もなくなった。
    やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣...。しかし、壕の所まで行って私は一瞬とまどった。
    壕の中には敵があっちこっち、よりかかるようにしてうなだれている。こんなことだったら苦労して攻撃する必要もなかったのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手の軍刀を横にして心臓部めがけて...。
    グーイと動いた、分厚い綿入れを着ており、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
    (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
    (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)

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