kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(016)昭和16年(1941年)大東亜戦争(太平洋戦争)勃発まで❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」


この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ
 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)
昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

❝USA第51州の実態(016)昭和16年(1941年)大東亜戦争(太平洋戦争)勃発まで❞

目次

★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで 
東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(下記、昭和16年1月8日)
※ 東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関東軍参謀長すらもまともに務まらない資質しかもっていなかった。卑しく臆病で嫉妬心が強く、権威主義的な男であった。
・新聞紙等掲載制限令公布(昭和16年1月11日)
・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。(昭和16年5月)
独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結
 (昭和16年7月2日)。
<日本軍が南部仏印に進駐(昭和16年7月28日)>
アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
軍令部総長永野修身の上奏>
●中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃(昭和16年10月7日~11日)
大本営政府連絡会議(「御前会議」での追認、昭和16年10月4日)
●「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日、大本営政府
連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案)
●東条内閣成立(昭和16年10月18日、木戸幸一の推薦、第三次近衛内閣総辞
職(10月16日))
●通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
昭和16年11月26日)
昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:ホノルル7日午前7時55分、ワシン
トン7日午後1時25分)

本文


★1941年(昭和16年)、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発にいたるまで

東条英機が軍内に「戦陣訓」を発する(下記、昭和16年1月8日)。
※ 東条は一国を指導する器ではなかった。それどころか関東軍参謀長すらもまともに務まらない資質しかもっていなかった。
卑しく臆病で嫉妬心が強く、権威主義的な男であった。

戦陣訓

夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる虞なり。
されば戦陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く皇軍の道義を持し、皇國の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟ふに軍人精紳の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅論に炳乎として明かなり。而して戦闘茲に訓練等に關し準據すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。
然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に共の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。
深く慎まざるべけんや。
乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅論を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具體的行動の憑據を示し、以て皇軍道義の昂揚を圖らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

「第七 死生観」

死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。
身心一切の力を盡くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

「第八 名を惜しむ」

恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

※ 死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜びとすべきである、というのであった。
日本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想としたのである。
しかしここでつけ加えておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。
たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときにあわてて自決(未遂)を試みている。
東條のこの自決未遂は二重の意味で醜態であった。
・・・(中略)・・・

「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなことがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの威圧を含んでいた。
これもまた兵士たちには強要していながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた。
戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。
私は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者に都合のいい〈臣民の道〉であった。
保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203より抜粋)
・新聞紙等掲載制限令公布(昭和16年1月11日)

・日ソ中立条約締結

昭和16年4月13日)
これによりソビエトは実質的には満州国を承認。
スターリンの中国軽視は毛沢東スターリンへの不信感を高めた。
さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルト重慶政府(蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
米大統領が国家非常事態宣言、アメリカが臨戦態勢に入る。(昭和16年5月)

昭和16年6月22日)
独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。

  • ●●●● 日本軍が南部仏印ベトナム南部のサイゴン)に進駐(昭和16年7月28日)●●●●●
    軍事的には無血占領であったが、政治的には陸軍の見通しの甘さが浮き彫りになっただけで、ここですでに敗戦なのだった。
    また日米開戦の「ポイント・オブ・ノーリターン」を形成したといえるだろう。
    ※太平洋の平和維持について、一縷の望みを託していた日米間の国交を調整するという両国政府の交渉を、文字通り暗礁に乗り上げさせ、交渉の前途をすっかり暗くさせてしまった(実松譲著『米内光政正伝』光人社、p.86)

※『仏印進魅の第一の目的は、仏印におけるわが諸目的を達成するにある。第二の目的は、国際情勢がこれに適する場合、仏印を基地として迅速な行動を開始するにある。仏印占領後の次の計画は蘭印(インドネシア)に対する最後通告の発送である。シンガポール占領には、海軍が主な役割りを担当する。……われわれは航空部隊と潜水部隊をもって、断固として英米軍事力を粉砕する。近く仏印に進験する兵力は第二十五軍である』(筆者注:広東在駐の日本総領事が日本陸軍から得た「仏印進駐計画」の詳細な情報を外務省に暗号で送ったが、ことごとく解読されていた)・・・(中略)・・・こうして、米国はわが方の”平和進駐”の真意を事前に察知することが出来、その報復措置などについて、あらかじめ準備を進めたのであった。すなわち、アメリカは、(1941年7月)二十六日、日本の在米資産を凍結し、イギリスもオランダもアメリカにならって同じ措置をとった。またこの日マッカーサー将軍を司令官とする極東軍部隊が編成された。こうして日本を取り巻くA・B・C・D(米・英・中国・オランダ)包囲陣というものが、現実に完成されることになった。さらに8月1日、アメリカはかねてから準備していた石油の日本への輸出禁止をもって、日本軍の南部仏印進駐に報復したのだ。石油が得られないならば、日本の海軍は絵に描いたモチと化するであろうし、大陸軍もまた、”裸の兵隊”となり兼ねないであろう。武力をもって南方の石油を手に入れない限り、わが国は立往生することになり、相手の言うままに屈するよりほかにない。”この際、打って出るほかなし”の考えとなった。こうして、南部仏印進駐→対日全面禁輸→対米戦というレールが敷かれたのである。(実松譲著『米内光政正伝』光人社、 pp.90-91)

軍令部総長永野修身の上奏>
こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちはすっかり混乱している。
軍令部総長永野修身は、アメリカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏しているのだ。天皇木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)

  • 中国、宜昌にて日本軍が大量の毒ガス攻撃(昭和16年10月7日~11日)
    催涙ガス(クロロピクリン、クロロアセトフェノン)、嘔吐性ガス(アダムサイト)、イペリット、ルイサイト、青酸ガス、ホスゲンなどを使った悪魔どもの悪あがきのヤケクソ攻撃だった。
    (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.134-144)
  • 大本営政府連絡会議(「御前会議」での追認、昭和16年10月4日)

近衛文麿が内閣を投げ出した。
近衛文麿:「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」。
保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.85より)

  • 「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」(昭和16年11月16日、大本営政府連絡会議、石井秋穂・藤井茂原案):戦争終結への発想はお粗末な現実認識とともに無責任で他力本願(ドイツ・イタリア頼み)だった。

一 方針(略)
二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)濠洲印度二対シ政略及通商破壊等ノ手段二依り英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス
(ロ)「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ 印度ノ独立ヲ刺戟ス(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
(イ)近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スルト共ニ

印度二対シ施策ヲ行フ
(ロ)対英封鎖ヲ強化ス
(ハ)情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ実施ス
(三)三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携二勉ム
(ロ)海上作戦ヲ強化ス
(ハ)占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス

三 日独伊ハ協力シテ対英措置卜並行シテ米ノ戦意ヲ喪失セシ ムルニ勉ム(一)帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
(イ)比島ノ取扱ハ差シ当り現政権ヲ存続セシムルコトトシ戦争終末促進二資スル如ク考慮ス
(ロ)対米通商破壊戦ヲ徹底ス
(ハ)支那及南洋資源ノ対米流出ヲ禁絶ス
(ニ)対米宣伝謀略ヲ強化ス
其ノ重点ヲ米海軍主力ノ極東ヘノ誘致竝米極 東政策ノ反省卜日米戦無意義指摘ニ置キ米国輿 論ノ厭戦誘致二導ク
(ホ)米濠関係ノ離隔ヲ図ル
(二)独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
(イ)大西洋及印度洋方面ニ於ケル対米海上攻勢ヲ強 化ス
(ロ)中南米ニ対スル軍事、経済、政治的攻勢ヲ強化ス
保阪正康氏著『昭和史の教訓』朝日新書、pp.226-227)

  • 東条内閣成立(昭和16年10月18日、木戸幸一の推薦、第三次近衛内閣総辞職(10月16日))
    「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」よくもこんな発想ができたものだ。
    悪魔の内閣としか表現のしようがない。
    ※中島昇大尉(BC級戦犯、死刑判決)の述懐(昭和21年6月)
    「捕虜になると国賊扱いにする日本国家のあり方が、外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから個人に罪をかぶせるのはまちがっていませんか。・・・私は国家を恨んで死んで行きます」
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・陸海軍大臣の任務(瀬島龍三大東亜戦争の実相』より)
1.国の行政全般の議に参画する国務大臣
2.陸海軍省の主管大臣
3.「編成大権」に関する天皇の輔佐役
4.大本営の構成員

・「国民学校令」:国家による教育統制の完成。
ナチスのフォルクスシューレをそのまま真似た勅令。
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  • 通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
    昭和16年11月26日)
    中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)
  • 昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
    「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。

東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。

昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:ホノルル7日午前7時55分、ワシントン7日午後1時25分)
当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調された。
開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったことに注意が向けられた。
時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。
また真珠湾空襲開始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)************************************************
※重松譲(当時ワシントン駐在武官(海軍))の証言
「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかったんだ」
「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利用されただけだ」(保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より孫引き)

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※「木戸日記」(木戸幸一天皇を常侍輔弼ほひつし、宮廷の文書事務などを所管した内大臣)の存在
ともかく提出された日記は、天皇を頂点とした昭和政治史の中枢を検証する第一級の政治資料であった。
法廷では、検察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に関する記述は、いっさい活用されなかった。
しかし素直に日記を読めば、太平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、木戸など天皇側近の主体的決断という要因を入れなければ、歴史的に説明がつかないことは明らかだ。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.113)

※腰ぬけ知識人だらけの国
戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。
積極的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。
たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。
それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。
なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんにはいなかったはずである。
だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろう。
自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけではなかったか。…………心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説く。
それが学者の道だったろうか。
真理を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。
……反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。
こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。
南原繁(1945.12東京帝国大学総長に就任)は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しながら、こう述べている。
「私は彼らに『国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのである」。
小熊英二氏著氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)

※ 「歴史的意思の欠落」
日本は真に戦争か和平かの論議論議を行ったといえるだろうか。
・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどういう事態をさすのか。
その事態を指導者たちはどう予測していたのだろうか。
まさかホワイトハウス日章旗を立てることが「勝利」を意味するわけではあるまい。
・・・実際に戦争の結末をどう考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない。
・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回した。
ここに流れている思想は、すでて相手の意思にかかっているからだ。
あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみだけがある。
日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。
自存自衛体勢を確立したときとは一体どういうときか。
アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。
蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。
ドイツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。
しかし、最大の問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。
・・私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責任は重いと思う。
こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策決定のプロセスがある。
・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえない。(筆者注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなるので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用、334ページ~)

※そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。
実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。
その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。
昭和9年加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。
対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。
特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。
三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和 8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。
いわば対米英強硬論の急先鋒であった。
また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。
その分、裏工作も達者であった。
そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。
会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。
以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。
中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。
「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。・・・(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88より)

 

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