❝1947年(昭和22年)9月に東京帝国大学を東京大学と改称される以前の1946年(昭和21年)8月27日 、内村鑑三の弟子となり生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった貴族院勅選議員で東京帝国大学の総長南原繁は貴族院本会議において、新憲法案の戦争放棄条項について、「歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のこと」とした上で、将来日本が国際連合へ加入する場合、国連憲章で認められた自衛権と国連軍への兵力提供義務の双方を放棄するつもりなのか、また講和会議においても最小限度の防衛をも放棄するのか、吉田首相に質問した。
そして、「若しそれならば既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない」と主張した。
1951年(昭和26年)9月8日に連合国諸国と日本との間に締結され、1952年 (昭和27年) 4月28日に公布されたサンフランシスコ平和条約において単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となったことで南原は吉田茂から「曲学阿世の徒(世の中にへつらい、真理を曲げる人たち)」と名指しで批判された。
当時の人々にも難しいことばを使い、煙にまいていた面があり、労働運動家のことを「不逞(ふてい)の輩(やから)」と、やはり難しく批判したこともある。
また吉田茂は1952年7月と54年2月に「戦争になったら日本軍は米軍の指揮下に入る(統一指揮権の密約)」という内容の口頭密約をして、独立国としての戦力の指揮権を放棄して実質的に米国属国の道を選んだである。
その後1960年に締結された日米安全保障条約第六条に基づく日米地位協定をどう運用するかを協議する、地位協定の25条の規定に基づき両国の代表者で組織される機関として日米合同委員会が設立された。
主に在日米軍関係のことを協議する機関で、政治家は参加せず省庁から選ばれた日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーとして月2回、協議を行っている。
議事録などについて日米双方の合意がない限り公開されないという合意がなされていた。
日本側代表は外務省北米局長、アメリカ側代表は在日米軍司令部副司令官からなり、日本側は代表代理として法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米参事官、財務省からなり、その下に10省庁の代表から25委員会が作られている。アメリカ側は代表代理として駐日アメリカ合衆国大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海兵隊基地司令部参謀長からなる。
これらの構成は、協定の中で具体的に明文化されたものではない。
この委員会の会合では米国から日本に改革要望という形式で日本が優先して行わなければならない政策が指示されている。(矢部宏治著『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』)大臣官房審議官❞
❝#内村鑑三
#吉田茂
#日米合同委員会
#南原繁
#口頭密約
#曲学阿世の徒
#フランシスコ平和条約❞
|