kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(017)昭和16~17年(1941~42年)大東亜戦争(太平洋戦争)勃発❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」


この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

今回はプロローグは省略します。
今後プロローグは数回に1度記載します。

 

目次

大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)
※開戦の原動力となった中心的悪魔ども近衛文麿(東条の前の無責任首相)
東条英機木戸幸一(「銀座の与太者」)、東条を首相に推薦)
■官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
■陸軍と海軍のばかばかしい対立
■バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
■後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
■日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。
■死者約310万人:日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。
(戦場での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越える?)
■「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長
(この3人の徹底した対米開戦派に牛耳られていた)
●一縷の望み:東郷茂徳外務大臣(当時、1942年元旦、外務省にて)
「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
★[無残な結果]:真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。他民族を差別・蹂躙。
●マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
●比島攻略戦開始(S16.12)
シンガポール占領(S17.2.15)
●ラングーン(イギリス領ビルマ)を占領(S17.3.8)
●ジャワ島に上陸(S17.3.1)しオランダ軍を降伏させた(S17.3.9)
●ドーリトル空襲:日本本土・東京が初めて空襲される(S17.4.18)
●妨害と干渉の翼賛選挙(S17.4.30、第21回総選挙)

・珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)
ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
●服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路
攻略の無謀さ(S17.7.18-S18.1.1)
ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
横浜事件(S.17.9~10頃)
●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」

本文

大東亜戦争勃発(太平洋戦争、昭和16(1941).12.8~20年(1945).8.15)
※開戦の原動力となった中心的悪魔ども近衛文麿(東条の前の無責任首相)
東条英機木戸幸一(「銀座の与太者」)、東条を首相に推薦)
東条英機の与太弁
・「戦争が終わるとは平和になったとき」
・「畢竟戦争とは精神力の戦いである。負けたと思ったときが負けである」
(筆者注:H14年から5年の長きに亘って首相の座にあり日本をさらにボロボロにした、小泉某によく似ているではないか)。
木戸幸一(「銀座の与太者」)のやったことアメリカとの戦争を回避しようとする願い、その試みを木戸はすべて潰しました。
「国策遂行要領」から対米戦争の準備、決意を取り除こうとする、水野修身の望みを、内大臣の木戸は素知らぬ顔で通しました。
対米外交交渉の基本方針の画定に秩父宮を参画させようとした高松宮の願いを、木戸は巧みに葬りました。
陸軍大臣と中国撤兵の是非をめぐって総辞職した近衛文麿を、木戸は再度、首相に選ぼうとは露ほども考えませんでした。
最後に山本五十六の参内したいという切願を木戸は容赦なく阻止し、平和を選ぶことができたであろう最後の機会を踏みにじりました。
いったい、木戸幸一はどういうことを考えて、戦争を選んだのでしょう。(鳥居民氏著『山本五十六の乾坤一一擲』文藝春秋、pp.242-274)
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陸軍省軍務局(武藤章(局長)、佐藤賢了(軍事課長))
陸軍参謀本部(田中新一)
星野直樹(東条内閣書記官長)
岡敬純・長野修身(海軍)
石原広一郎(民間、南進運動に積極的)
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.224-230)

※「大東亜の地域」:おおむねビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジア大陸、並びにおおむね東経180度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋海域を示しインド、豪州は含まれない。
また「大東亜戦争」とは、単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いのものに過ぎなかった。
瀬島龍三大東亜戦争の実相』より)
(筆者注:まったく、何と言う言い逃れであろうか)
                 
■官僚化した軍部が彼我の国民の命を無駄に費やした戦争
日本陸軍は(1)その8割が旧式機で構成されている戦闘機隊を主力とし(2)一度も実践に投入したことがない新型戦闘機に頼って、欧米の航空先進国の空軍に立ち向かった。
※「陸軍は(わずかに)隼40機で、対英、米戦争につっ走った」
(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)

■陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
・海軍向け、陸軍向け戦闘機。
スロットル・レバーの操作が真反対
・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス料の二重払い。
同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
(三野正洋氏著『日本軍の小失敗の研究』より)

■バカバカしい、教育といえぬ兵隊教育
「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉がある。
しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。
なぜこういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。
そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。
ルーズヴェルトチャーチルスターリン蒋介石ヒトラーーたとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。
確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(筆者注:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、などというアホウな話は出てこない。
確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。
だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていないー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたがー-。
山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)

■後方思想(兵站、補給)の完全なる欠乏
日本軍内部:「輜重輸卒(しゅちょうゆそつ。旧日本陸軍で、輜重兵の監督のもとに輜重の輸送に従事した兵卒。のちに輜重特務兵と改称。)が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」
*******************
兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はそのというのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないということであった。
戦備品と捉えていたということになるだろう。
実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱いにしない作戦にと変わっていったのだ。
保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

※そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。
土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り換えている。
食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。
格別に新しい思想ではない。
山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。
つまり屯田兵である。
ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。
ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られない。
「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコレラマラリアデング熱、栄養失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。
こうして多くの人間が死んだ。
鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:168)

※井門満明氏(当時兵站参謀)
兵站思想には戦争抑止力の意味があります。というのは、冷静に現実を見つめることができるからです。
冷徹に数字の分析をして軍事を見つめることが、兵士を人間としてみることになり、それが日本には欠けていたということになります」
保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より孫引き)
■日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。
それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。
中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。
結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。
われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。
山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、 p.95)

■死者約310万人:日本国民の実に1/25(しかも若者)が戦死した。
(戦場での傷病により戦後亡くなった者を含めると500万人を越える?)

■「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」への数々の違反
1.シンガポールでの抗日華僑義勇軍約5000人の殺害
(1942年2月、辻政信
2.「ラハ事件」:アンボン島侵攻作戦時豪州兵集団虐殺
(1942年2月、責任者:畠山耕一郎)
3.米・比軍の約8万5000人の「死の行進」(フィリピン、バターン半島、1942年4月。
約120km。
責任者:本間正晴中将(1946.4.3に銃殺刑に処せられる。
(但し本間正晴は「穏健な人道主義者」とされている。文芸春秋 2007;6:119-120)
米兵1200人、フィリピン兵16000人が死亡(虐殺、行方不明)。
4.オランダ領インドネシアボルネオ島を主とする捕虜の虐待
5.タイ北西部、泰緬鉄道(筆者注:ビルマへの補給を確保するためタイのノンプラドックからビルマのタムビザヤ間415kmに建設された鉄道)建設に関する多数の捕虜の死亡(1942~1943年)。
(連合国捕虜65000人、アジア人労働者30万人を導入。うち 16000人が飢餓と疾病と虐待により死亡)。    
6.その他
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古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.284-285より>
帝国陸軍シンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。
シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。
約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。
抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそうである。
日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。
アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。
これには名目などない、狂乱の所行である。
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明治38年式歩兵銃でM1カービン機関銃に歯向かった
# 前線の下士官の一人は「これは戦争とは言えなかったな」と呟いた。

日本陸軍は「機械力の不足は精神力で補うという一種華麗で粋狂な夢想」
に酔いつづけた。
※太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその「会議」というものが押したのである。
そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだか、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。
東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。
司馬遼太郎氏著『世に棲む日々<三>』より引用)     

※まったく馬鹿な戦争をしたもんだと、黒い海を見つめていた。
それにしても腹がたつのは東京の馬鹿者たちだった。
何が一億総特攻だ。
これが一億特攻か。
話のほかだ。
怒りがますます込み上げた。
こうなったらなにがなんでも日本に帰り、横浜の日吉台防空壕に潜んでいる連合艦隊の参謀たちに毒づいてやる。
そうしなければ、死んでいった者どもに 、何といってわびればいいのだ。(巡洋艦『やはぎ』、原為一艦長)

●開戦前の参謀本部:田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長
 (この3人の徹底した対米開戦派に牛耳られていた)
※服部と辻はノモンハン大敗北の元凶。
※特に辻政信は「作戦の神様」と言われていた。(◎_◎)
 「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり」(山下奉文 評)
※服部卓四郎はおめおめと生き残って、あろうことか敗戦後もGHQ情報部ウィロビー将軍などと結びついて再軍備を画策した。
性懲りのないアホウはいつの世も存在するものだ。
※このほかの腐敗卑怯狡猾悪魔軍人の典型例を掲げておこう。
荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之、山下奉文、福栄真平、富永恭次、寺内寿一、山田乙三、牟田口廉也

  • 一縷の望み:東郷茂徳外務大臣(当時、1942年元旦、外務省にて)
    「外務省職員はこぞって、早期終戦に努力せよ」
    この東郷茂徳は1948年、極東軍事裁判A級戦犯にされ、憤慨しつつ獄中
    で亡くなった。
    東郷外相は、外務省によって戦犯にされたという疑いが濃厚なのである。

    ★[無残な結果]:真珠湾奇襲という卑怯で悪辣な行動は後に禍根を残した。
    南方戦線での兵の使い捨てと玉砕。
    他民族を差別・蹂躙。
    ※特殊潜航艇:潜水艦から発射する魚雷に人間を搭乗させて百発百中を狙うという考えで5隻の特殊潜航艇が出撃した。
    この悪魔の考えは後に昭和18年5月頃「人間魚雷」へとさらに堕落したのであった。

・「言論出版集会結社等臨時取締法」発布(S16.12):言論統制

  • マレー作戦(シンガポール攻略など、S16.12.8~S17.2.15)
    司令官山下奉文ほか、西村、松井、牟田口が関わった。
    シンガポール昭南島と市名を変えられ軍政が敷かれ、日本軍は住民から言葉を奪った。
    山下奉文: 「これから、お前らを天皇陛下の赤子にしてやる。 ありがたいと思え。・・・」
    (何たる傲慢、何たる無知か。唖然として絶句しかない)
  • 比島攻略戦開始(S16.12)
    フィリピンではこの時から、レイテ沖海戦を経て敗戦までの3年8か月の間に約51万人の将兵、民間人が死亡した。
    フィリピンの日本軍は、住民と敵対し虐殺の行為者となっていた。
    (後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』pp.112-113より)
    ・マニラ陥落(S17.1.2)
    ・ロンドンのセント・ジェームス宮殿にドイツに国土を占領された亡命政府が集まり、戦争犯罪に関する連合国間の最初の国際会議が開催され、戦争犯罪処罰の宣言を発表(S17.1)

ダグラス・マッカーサー:"I shall return."フィリピン、コレヒドール島(S17.5陥落)を脱出(S17.3.12)。
後には在オーストラリアの連合軍と密接に連絡する地下ゲリラ組織が残った(残置諜報)。
ミンダナオ島ダバオには、東南アジア最大の日本人コロニーがあった。日本人移民がほとんど政府の力を借りずに築いた町だった。戦争当時約2万人が住んでいたが戦争の被害者となった(鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:165)。
       
シンガポール占領(S17.2.15)
●ラングーン(イギリス領ビルマ)を占領(S17.3.8)
●ジャワ島に上陸(S17.3.1)しオランダ軍を降伏させた(S17.3.9)。
日本軍は各国・地域の首都を占領すると、まもなくして軍政を開始しました。
フィリピンは陸軍第十四軍、ジャワ島は第一六軍、マラヤ(18世紀から20世紀にわたりマレー半島シンガポール島に存在した海峡植民地とその他の地域からなるイギリス支配下の連邦)とスマトラ島は第二五軍、ビルマは第一五軍がそれぞれ担当し、オランダ領ボルネオやセレベス(スラウェシ)島以東の島々は、海軍が担当しました。
日本軍は、イギリス領マラヤやオランダ領東インドという枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで、統治したのです。
ここで勘違いをしてもらっでは困るのは、軍政と言ってもそのトップが軍人であっただけということです。
実際に行政を司った人のなかには、日本の官庁から派遣された官僚などが多く含まれていました。
また、「資源の獲得」に従事したのは、軍から受命した一般企業で、積極的に進出しました。
海軍担当地域は、「未開発」地域が多いとみなされたことから、日本が永久確保すべき地域とされ、「民政」がおこなわれました。
しかし、「民政」とは名ばかりで、陸軍に勝るとも劣らない強権的な「軍政」がおこなわれました。
いずれも、軍人が大きな力をもっていましたが、官も民も積極的に協力しました。
その意味で、軍人だけに戦争責任を押しっけるのは、問題があると言えます。(早瀬晋三氏著『戦争の記憶を歩く 東南アジアの今』岩波書店、p.9)。

  • ドーリトル空襲:日本本土・東京が初めて空襲される(S17.4.18)アメリカ空母ホーネットから発進したB25が東京、名古屋、関西方面を初空襲。
    (作戦名『シャングリラ』、S18年ルーズベルトにより命名される)。
    当時の防衛総司令官東久邇宮稔彦は捕虜となった米人を処刑してしまった。
  • 妨害と干渉の翼賛選挙(S17.4.30、第21回総選挙)
    近衛文麿衆議院議員の任期を法律を作って1年先延ばしして選挙を行った(国家の方針に全員一致で賛成する翼賛議会体制の確立)。
    投票率83.1%で翼賛政治体制協議会からの推薦候補は381人(466人中)と80%以上が当選。
    非推薦候補は85人のみ。
    非推薦候補鳩山一郎:「だんだんと乱暴の干渉をきく。憲法は実質的に破壊さる。選挙にして選挙に非らず。当局は蓮月尼の歌でもよく味へ。討つ人も討たるる人も心せよ おなじ御国の御民ならずや」
    (清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、p.40)

・早川忠氏(筆者の親友早川芳文君の父君、T15.11.5生~H8.1.11病没)
乙種第18期飛行予科練習生(1476名)として、土浦海軍航空隊に入
隊。
16歳(S17.5.1)(倉町秋次『豫科練外史<4>』教育図書研究会、1991年、p.286)

・珊瑚海海戦(MO作戦、S17.5.7~8)
空母対空母の初めての激突。
翔鶴(しょうかく。2代目。空母。2.98万トン)航行不能、ヨークタウン(空母。1.98万トン)大破、祥鳳(しょうほう。空母。1.3万トン)とレキシントン(空母。3.6万トン)沈没で痛み分け。
日本の侵攻作戦はここまで。
       
ミッドウェー海戦での惨敗(S17.6.5)
正規空母四隻、重巡一隻を喪失。
優秀なパイロットと整備員を失う。
密閉型格納庫方式の採用が空母の命取りになった。
さらに航空機損失322機、失った兵員3500名に達する壊滅的敗北を喫した。
(作戦の責任者は順調に昇進した。お笑い種である)。
澤地久枝氏著『滄海よ眠れ(-)』(文春文庫)によれば、淵田(美津雄)戦史(淵田・奥宮共著『ミッドウェー』)の中の「運命の五分間」説が大ウソであって、現実は艦隊司令部の”敵空母出現せず”の思い込みからきた作戦ミスだった。
淵田は中佐であり海軍指揮官であり、事実までねじ曲げる軍隊の恐ろしさが、ここにも首をだしている。❞


【❝https://gendai.media/articles/-/75885?page=2 当時の支配体制に関与していた人物を列挙します。総理大臣東条英機海軍大臣嶋田繁太郎大将。軍令部総長永野修身大将、軍令部次長近藤信竹中将、参謀本部第一部作戦担当第一課(作戦・編成)作戦課瀬島龍三少佐。機動部隊司令連合艦隊司令長官山本五十六中将、連合艦隊参謀長宇垣纏少将、連合艦隊兼第一艦隊首席(先任)参謀黒島亀人大佐、連合艦隊作戦参謀・三和義勇大佐、戦務参謀渡辺安次中佐。第一機動部隊指揮官は、第一航空艦隊司令長官兼務南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、首席参謀大石保中佐、甲参謀源田実中佐、乙参謀吉岡忠一少佐。第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)司令官山口多聞少将、参謀安井鈊二少佐、橋口喬少佐。

 司令官の判断ミスから、当初は敵艦隊に備えて全兵力の半数に装備していた魚雷や爆弾を、(ミッドウェイ)島の攻撃のため陸用爆弾に換装し、さらに索敵機の敵艦隊発見の報告を受け、ふたたび対艦攻撃用に換装するなど、各空母が混乱している間に、敵艦上機の攻撃を受けたのはよく知られている通りである。米軍パイロットは、日本軍将兵が舌を巻くほど勇敢だった。護衛の戦闘機もつけずに低空から来襲した雷撃機は、その大部分が上空直衛の零戦と対空砲火によって撃墜されたが、日本側が低空の敵機に気をとられている隙に、上空から、雲の間を縫って急降下爆撃機が襲ってきたのだ。午前7時23分、敵急降下爆撃機の攻撃で、まず「加賀」が被弾。続いて「蒼龍」「赤城」にも爆弾が命中し、それが換装作業で信管をつけたまま格納庫に残されていた魚雷や爆弾の誘爆を起こして、大火災となった。「飛龍」は、自ら艦に残った山口司令官、加来止男艦長を乗せたまま、味方駆逐艦の魚雷で処分された。すでに「蒼龍」は6月5日午後4時12分に沈み、「加賀」は味方魚雷で処分されて4時26分に沈没、「赤城」も、味方魚雷で処分され6月6日朝には海面から姿を消している。❞】

❝●服部卓四郎と辻政信の独断による最悪のポート・モレスビー陸路
攻略の無謀さ(S17.7.18-S18.1.1)標高4073mのスタンレー山を越えてニューギニア北岸のブナからポート・モレスビーをめざすという行程は実際距離340kmの陸路進行で無謀極まりない作戦だとわかっていたが、田中-服部-辻という相変わらずのバカ参謀どもにより独断で行われ、飢餓地獄で終わっ
た。
辻はここでも責任を問われなかった。
藤原彰氏著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、pp.37-43)
-----------------------
「食糧の欠乏は、的弾以上の徹底的損害を我が軍に与えるようになってきた。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を消耗しきってしまい、頬は落ち髪は伸び放題となり、眼球は深く凹んで底に異様な光が残った。そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、裸足で棒のようにやせた腕に飯盒をぶらさげ、草を摘み水を汲んで歩く姿はどこにも二、三十才の年齢は見られず、老いさらばえた乞食といった様子だった。・・・この栄養失調の衰弱した体に一たび下痢が始まりマラリアがあたまをもたげると、血便を下し、40度前後の高熱に襲われ・・・発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は戦友の心づくしの粥すら欲しないようになり、水ばかり飲んで喘いでいるのだった。
・・・患者はたいてい1週間も発熱を続けると脳症を起こしてうわごとを言い始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉のようにあっけなく死んだ。・・・(結局)7割は病死だった」
(小岩井第二大隊長の回想録より)
藤原彰氏著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、pp.45-46)

  • ガダルカナルを中心とした陸海の攻防での惨敗(S17.8.7~S18.2)
    ガダルカナル戦は補給を全く無視して陸軍部隊を送り込み、戦死者の3倍もの餓死者を出すという悲惨な結果を迎えた。まさに大東亜戦争の全局面を象徴するような戦闘となった。(藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』青木書店、p.22)
    (「い」号作戦:ガダルカナルを巡っての航空決戦。このガダルカナルこそは大東亜戦争の縮図だ。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの戦いの全てに現れている)。
    第一次ソロモン海戦
    陸海軍兵隊約3万1000人のうち約2万800人が無駄に死(大半が餓死、マラリアによる病死)んだ。
    多くの熟練パイロットの戦死により海軍航空隊の戦力が激減(893機の飛行機と2362名の搭乗員を失う)した。

※井本熊男(当時参謀本部作戦課)の回想
「ガ島作戦で最も深く自省三思して責任を痛感しなければならぬのは、当時大本営にありて、この作戦を計画、指導した、洞察力のない、先の見えぬ、而も第一線の実情苦心を察する能力のない人間共(吾人もその一人)でなければならぬ」
※藤木参謀(ガダルカナル作戦大失敗の馬鹿参謀)曰く・・・一支隊の命運はそれこそ鴻毛の如し、従容として悠久の大義に生くる悦びとして受け入れるべきであり、戦争ではよくあることであります。
その一つ一つに過度の感情移入は禁物であります。(ゴミだな。こいつは)
(福井孝典氏著『屍境』作品社、p.18)
大本営発表
「・・・ガダルカナル島に作戦中の部隊は・・其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」(あほか? 狂っとる)

※撤退にあたっての陸軍司令部よりの命令(最低!!)
「新企画実行の為行動不如意にある将兵に対しては皇国伝統の武士道的道義を以て遺憾なきを期すること」
(飯田進氏著『地獄の日本兵新潮新書、p.41))
横浜事件(S.17.9~10頃)
太平洋戦争下の特高警察による、研究者や編集者に対する言論思想弾圧事件。
特高特別高等警察=思想の取り締まりが任務)
1942年、総合雑誌『改造』8、9月号に細川嘉六論文〈世界史の動向と日本〉が掲載されたが、発行1ヵ月後,大本営報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し、これをきっかけとして神奈川県特高警察は、9月14日に細川嘉六を出版法違反で検挙し、知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上げようとした。
しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから、共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。
そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め、このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に『改造』『中央公論』編集者や研究者を招待したさい開いた宴会の1枚の写真を発見した。
特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ、改造社中央公論社日本評論社岩波書店朝日新聞社などの編集者を検挙し、拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
このため44年7月、大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ『改造』『中央公論』両誌は廃刊させられた。
一方、特高は弾圧の輪を広げ、細川嘉六の周辺にいた、アメリ共産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻、世界経済調査会、満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し、治安維持法で起訴した。
拷問によって中央公論編集者2名が死亡、さらに出獄後2名が死亡した。
その他の被告は、敗戦後の9月から10月にかけて一律 に懲役2年、執行猶予3年という形で釈放され、『改造』『中央公論』も復刊された。
拷問した3人の特高警察官は被告たちに人 権蹂躙の罪で告訴され有罪となったが、投獄されなかった。   
松浦総三平凡社大百科事典より))

●「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」
国民には強制的な言論統制がなされていた。この年(昭和18年
の初めから「敵性語を使うな」とか「敵性音楽を聴くな」という命令が内務省や情報局からだされた。カフェとかダンスといった語はすでに使われず、野球のストライクもまた「よし一本」という具合に変わった。電車のなかで英語の教科書をもっていた学生が、公衆の面前で難詰されたり、警察に告げ口されたりもした。
とにかく米英にかかわる文化や言語、教養などはすべて日常生活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態がつくられていく予兆であった。指導者たちが自分たちに都合のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくつていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間のロボット化だったのだ。
ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述べたり、指導者を批判したりすると、たちまちのうちに告げ口をする者によって警察に連行されるという状態だった。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.154-155より)❞

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