kinugoe

悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(018)昭和18年(1943年)大東亜戦争(太平洋戦争)ニューギニア~❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」


この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

❝今回はプロローグは省略します。
今後プロローグは数回に1度記載します。

目次



本文


  • ニューギニア東岸、輸送船団壊滅(S18.2.28)
    昭和十人年二月二十八日、第十八軍の隷下に入る兵士たちを乗せた八隻の輸送船団は、陸海八十機の戦闘機、八隻の駆逐艦に護られながらラバウルを出発しました。
    しかし、ブナから三百キロ北西のラエ近くで敵空軍の反復攻撃を受け、輸送船はすべて沈んでしまいました。
    駆逐艦も四隻が沈没しました。
    第十人軍の司令部要員のほか、三千名の将兵が海に沈んだのです。
    貴重な武器、弾薬、車両、燃料などを失った僅か八百五十名の将兵が、丸腰のままラエに上陸しただけでした。
    (飯田進氏著『地獄の日本兵新潮新書、p.61)

ビスマルク海での日本軍輸送船団壊滅(S18.3.4)
アメリカ空軍による新しい攻撃方法(スキップ爆撃)

・唖然とする100トン戦車構想
どうやって持ち込み、何に使う? 実際機能するのか?貧弱な発想の典型。

・「い号作戦」(S18.4.7)
零戦はじめ合計400機による航空部隊による、ニューギニアアメリカ軍飛行場攻撃作戦(山本五十六自ら指揮)



  • 御用哲学者田辺元の体制迎合的講義(1943.5.19)
    (林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
    19日のT(筆者注:田辺元)教授月曜講義「死生」を聴講。
    すなわち、死は自然現象であり、我々の本性意志のいかんともしがたいものとみる、ストアを代表とする自然観的認識論と、これにたいして、死を現実の可能性とみて、それへの覚悟により蘇生の意義をみるハイデッガーを代表とする自覚存在論的態度を説明し、このいずれも現代の我々の死生の迷いを救うものでないとする。
    しからば我々を救う死の態度とは”決死 ”という覚悟のなかにありとT教授は説く。つまり、死を可能性の問題として我々の生を考えるのではなく、我々
    はつねに死にとびこんでゆくことを前提に現在の生があるという。
    この場合、死はSein(存在)ではなくしてSollen(当為)であるという。
    林は、「T教授の論理は、あきらかに今日の我が国の現状の必要性に即応することを考慮した考え方であろう」と鋭く見抜いていた。
    (大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.124)
  • アッツ島玉砕(S18.5.29)
    大東亜戦争下での初めての玉砕。
    傷病兵を安楽死させ、2576人全員死亡。
    藤田嗣治画伯『アッツ島玉砕』を見よ!!)            
    山崎保代大佐:「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる軍属は各自兵器を執り、共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを虞(おそれ)る。英魂と共に突撃せん」

※「玉砕」とは
「玉砕」は、唐の時代に編まれた 『北斉書』 の一節「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。
大丈夫たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉のごとく美しく砕け散るほうがよいという意味だが、それを現代に復活させ神がかり的な殉国思想と結び付けたところに、大本営の詐術があった。
国家および天皇のためにいさぎよく死ぬことは、生き延びることよりも美しい。
実際には戦場で無謀な突撃をして皆殺しにされることを、「玉砕」の二文字は美化し、そのような徒死に向かって国民の意識を誘導する役割をも果たした。
野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.207)

清沢洌氏『暗黒日記』(岩波文庫、p.39より)
昨日(S18.5.29)アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。
午后五時大本営発表だ。
今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。
これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。
第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。
しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
第二、敵の行動は分っていたはずだ。
アラスカの完備の如きは特に然り。
しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶(卓絶)していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。
第五、次にくるものはキスカアリューシャン列島内)だ。
ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。
玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。
それが国家のためにいいのであるか。
この点も今後必ず問題になろう。
もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。
ああ、暗愚なる大衆!

※ 不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった鼠輩が威張り廻していることだ。(伊藤正徳
清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.46)

※ 開戦の責任四天王は・・・
徳富蘇峰(文筆界)、本多熊太郎(外交界)、末次信正(軍界)、中野正剛(政界)
清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.102)

  • 東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定(S18.6.25)
    大東亜戦争の現段階に対処し、教育練成内容の一環として、学徒の戦時動員体制を確立し学徒をして有事即応の態勢たらしむるとともに、これが勤労動員を強化して学徒尽忠の至誠を傾け、その総力を戦力増強に結集せしめんとす> アホか!!

創価学会初代会長・牧口常三郎、二代目会長・戸田城聖(甚一)が治安維持法違反で逮捕された。(S18.7.6)

  • 清沢洌氏の日記より(S18.7.31)
    毎朝のラジオを聞いて常に思う。
    世界の大国において、かくの如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。
    国際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。
    全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。

・イタリア無条件降伏(S18.9.8)
昨日まで「イタリー、イタリー」といっていたのが、今日は文芸欄その他まで動員しての悪口だ。
日本の新聞には小学校生徒の常識と論理もないらしい。
清沢洌氏著『暗黒日記』、岩波文庫、p.89)

  • ニューギニア東部サラワケット山越え"地獄の撤退"(S18.9.10)
    (飯田進氏著『地獄の日本兵新潮新書、pp.63-69)
    ※ラエ・サラモアからキアリへの標高4000m級の山越え行軍を強いられた部隊の一つである第51師団第三野戦病院の岩田亀索衛生伍長は次のように書いている。
    「ラエより(S18.9.15発)死のサラワケット越え(行程約400km)、前半10日くらいは的(敵)包囲のうちの逃避行、虎の尾を踏む思ひの暗夜の難行軍、谷へ転げ落ちる者数知れず、キアリ着(S18.10.15)。ラエ撤退時の兵力約六千、どうにかキアリに着いた将兵は半数の約三千、熱帯とは云へ四千米以上の高山、寒さ、連日の行軍、疲労凍死、餓死数十名が各所に枕を並べて無念の涙を飲み此の山の犠牲となる。今もなほ白骨を晒す姿が目に浮かぶ」
    藤原彰氏著『餓死(うえじに) した英霊たち』青木書店、p.57)

・ロンドンに連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)が設置(1943.10)さ
れ、1944年より活動を開始。

  • 学徒出陣(S18.10.21、最初の「壮行会」、25000人)
    東条英機:「御国の若人たる諸君が、勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃破して皇運 を扶翼し奉る日はきたのである」。

※時まさに連戦連敗、戦争を知らない人間には、戦争をやめる断固たる決意も持ち得なかったということだろう。
あきれる他はない。

※特攻パイロットには意図的に学徒出陣組が徴用された。

※1943年12月にいまだに正確な数字はわかっていないが、全国で20~30万人の学生が学徒兵として徴兵された。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、p.126)

※学徒兵として召集された朝鮮人は4385人、このうち640人が戦死
(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店

※林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の場合
1941年9月5日には、林は次のように記す。「日本よ、ぼくはなぜ、この国に敬愛の念を持ちえないのか」。
さらに10月12日には、「国家、それは強力な支配権力の実体である。・・・ぼくは、もはや日本を賛美すること、それすらできないのだ」と言いつつ、「戦争は、国体擁護のためではない。そうではなくして、日本の基本的性格と、そのあり方が、日本という国家に、戦争を不可欠な要素たらしめているのだ」と鋭い洞察を示す。
日本は戦争なしでは一瞬たりとも存続しえない戦争機械のような存在である。
戦争がなければ、自らが生き延びるために無理やりにでも戦争を作り出すだ
ろう-ーこの戦争不可欠という洞察からはどのような希望も導き出すことはできない。
林はこの日、次のようにも述懐する。
・・・ぼくは、この戦争で死ぬことが、我ら世代の宿命として受けとらねばならぬような気がする。
根本的な問題について、ぼくらは発言し、批判し、是非を論じ、そして決然たる態度で行動する。
そういう自主性と実践性を剥奪されたままの状況で戦場にでねばならぬためである。
だから宿命と言うのだ。
戦争で死ぬことを、国家の、かかる要求のなかで死ぬことを、讃えたいとは霜ほども思わぬ。
その、あまりにもひどい悲劇のゆえに。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.120-121)

東条英機を公然と批判した中野正剛憲兵隊に引っ張られ10月27日自殺させられた。
憲兵隊:軍隊の警察。本来の任務は軍の綱紀粛正。内地憲兵と外地憲兵の二種あり。外地憲兵は作戦任務・諜報活動・機密保全が主な任務)。
中野正剛:「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨(きすう。物事が最終的に落ち着くこと)に迷うことにより滅びる」
(『戦時宰相論』)

・米英ソが三国首脳の名で「ドイツの残虐行為に関する宣言」
(モスクワ宣言)を発表(1943.11.1)
”ドイツの戦争指導者については、連合国政府の共同決定によって処罰する”ことをはじめて規定した。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判』への道<上>』講談社、pp.18-19)

  • マキン、タラワ両島の守備隊が全滅(S18.11)
    柴崎恵次海軍少将他4500名全滅
  • ブーゲンビル島沖海戦(S18.10~11)
    ブーゲンビル島ラバウル防衛ののための要点であったので、米軍のタロキナ岬上陸(S18.10.27)に対して連合艦隊の主力をあげて反撃したが米艦のレーダーが大威力を発揮、絶対劣勢と思われた米艦隊が勝利した。
    日本海軍はブーゲンビル島突入に失敗。
    情報収集・分析・活用を無視した結果であった。
    なおこの時の戦果は大本営発表の1/10だった。
    タロキナ作戦大敗北の後に残った兵は4万余あったが、方面軍の報告ではS20.12.10には203053人(おそらく記載の間違い)に減少。
    大部分は飢餓に基づく戦病死であった。
    しかもブーゲンビル島の第6師団のすさまじい飢餓の状況のなかで食糧を求めて離隊し、敗戦後に戻った兵を軍法会議にもかけず、敵前逃亡とみなし銃殺したという。
    (1997.7.12放送、NHK教育テレビ「封印ーー脱走者たちの終戦」)
    (後半部は藤原彰氏著『餓死(うえじに)した英霊たち』pp.30-31より)

・カイロ会談(1943.11):ルーズベルトチャーチルの反対を押して蒋介石をカイロに招き戦後の満州、日本の帰趨についてなど話しあった。
どういうわけか蒋介石夫人の宋美齢も同席した。
チャーチルにとっては中国はどうでもよかった。
(このあとルーズベルトチャーチルスターリンと会談するためにテヘランに行き、結局、カイロ会談での合意(中国を援助する)を放棄。蒋介石を激怒させた。これが蒋介石政権の没落のはじまりとなった)。
この『カイロ宣言』で連合国が、日本の戦争責任処罰をはじめて公式に共同声明した。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.20)❞
      

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