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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(022)昭和20年(1945年)原爆・ソ連参戦・終戦❞

❝USA第51州の実態(022)昭和20年(1945年)原爆・ソ連参戦・終戦

 

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞
(初稿1999.10.29)
❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

今回はプロローグは省略します。
今後プロローグは数回に1度記載します。

❝USA第51州の実態(022)昭和20年(1945年)❞

目次 

・ロンドン会議(1945.6~)戦争犯罪人を裁く国際裁判方式の法的根拠について米英仏ソは鋭く対立。
●第87臨時議会開院式(戦前最後の議会、S20.6.9)での天皇発言
天皇がやっと戦争終結を方針を表明した。(S20.6.22)
●沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(義勇兵役法公布、S20.6)(国民総員特攻化)
国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
満州への定住者約130万人
・敗戦時の海外の日本人軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
●原爆投下:広島(S20.8.6 08:15:45=ウラン)
ソ連の極東戦争への介入を妨害、対日戦勝利のへの寄与をできるだけ最小限に食い止める。
ソビエト軍満州進攻(対日宣戦布告、S20.8.8)
ソビエト軍将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。
●ふたたび原爆投下:長崎(S20.8.9=プルトニウム
ソ連の対日参戦の影響を力をできるだけ少なくせねばならぬ。
●昭和20年8月9日御前会議、天皇の発言
陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
●「降伏文書」調印式(S20.9.2)●スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】



❝本文

・ロンドン会議(1945.6~)
戦争犯罪人を裁く国際裁判方式の法的根拠について米英仏ソは鋭く対立。「通例の戦争犯罪」に加えて「平和に対する罪」「人道に対する罪」が採択される事になった。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、pp.19-20)

  • 第87臨時議会開院式(戦前最後の議会、S20.6.9)での天皇発言
    「世界の大局急変し敵の浸冦亦倍々猖獗(しょうけつ。勢いを増す)を極む正に敵国の非望を粉砕して征戦の目的を達成し以て国体の精華を発揮すべき秋なり」という勅語を発している。(もう完全にアホです)
    (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.209)

    天皇がやっと戦争終結を方針を表明した。(S20.6.22)
    (纐纈厚氏著『日本降伏』日本評論社、p.213)
  • 沖縄守備軍全滅(S20.6.23)
    "鉄の暴風"(砲撃)。戦死9万人、一般市民の死者10万人。
  • 国民義勇隊結成のすすめと法的枠付け(義勇兵役法公布、S20.6)
    15歳以上60歳までの男子と17歳以上40歳までの女子に義勇兵役を課す。
    これが国家総力戦構想のなれの果ての姿だった(国民総員特攻化)。
    日本陸軍は人間特攻として戦車やアメリカ軍に突入する玉砕要員が欲しかっただけのことである。
    国民義勇隊の兵器展示(S20.7)
    手りゅう弾、単発銃(元亀天正の銃)、竹ヤリ、弓、さす叉、鎌、鉈、玄翁、出刃包丁、とび口など。
    (こういう発想を平気で行う軍人は狂人という他なく、呆れ果てるばかりである)
    結局、昭和陸軍は、あらゆる戦力が尽きつつあったときに、本土決戦という名の玉砕を目指していたのだ。
    ---------------------------------
    大本営から来たという中佐は岩松(筆者注:岩松三郎、当時東京民事地方裁判所所長・戦後最高裁判事)にこう説明した。
    「諸君は義勇軍を組織して帝都を守るんだ。各省庁ごとの連絡は隊長がやりなさい。我々の方からも命令を出す。しっかりやるように」
    しっかりやれと言われたところで、裁判官たちに戦う能力があるとは思えない。
    岩松はおそるおそる訊いている。
    「それじゃ、武器はどうなるのですか。どういう武器をいただけるのですか」
    「所在の武器をとってやれ」
    「所在の武器とはどこに」
    「棒でも石ころでもあるだろう」
    そう言い放つ中佐に、岩松はたまらず訊き返した。
    「それで上陸してくる米軍と戦えというのですか。軍人は帝都を守ってくださらないんですか」
    「軍人は陛下をいただいて長野に引っ込んで国を守るんだ」
    もはや呆然とするしかなかった。
    中佐が出ていってから、立ちつくす所長の元に部下の裁判官たちが集まってきた。
    岩松は首を振って彼らに諭した。
    「もう、こんなところにいてはいけない。私は大隊長として敵のタンクに向かって突進します。みんなは疎開しなさい。妻子をこんなところに置いてはいけない」
    所長の言葉に、部下の一人は家から持ってきたという日本刀を見せた。
    「所長だけを死なせるわけにいきません。私もこの日本刀を振りかざして、タンクに向かいます。私も一緒に死にます」
    岩松の目から涙がこぼれた。
    そんなことをしたって無駄だよ、無駄に死ぬよりも、生き延びろ。
    記録さえ残しておけば、またいつか裁判を続けることができる。
    所長の言葉を聞きながら、集まった裁判官たちも、泣いていたという。
    (清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.145-147)
    ---------------------------------
    満州への定住者約130万人
    ・敗戦時の海外の日本人(659万人)
    軍人・軍属:約353万人、民間人:約306万人
    (昭和20年、『昭和 二万日の全記録』講談社
    プルトニウムを用いた人類最初の原爆実験成功(1945.7.16)
    コード・ネーム”トリニティ(三位一体)”(オッペンハイマー命名
    ●原爆投下:広島(S20.8.6 08:15:45=ウラン)
    ソ連の極東戦争への介入を妨害、対日戦勝利のへの寄与をできるだけ最小限に食い止める。
    ****************************
    トルーマンにとって必要だったのは、ソビエトを怯えさせること、アメリカの優位をスターリンに認めさせ野放図な振る舞いを慎ませることだった。
    そのために「世界中を焼き尽くす業火」を、降伏する前の日本に対して、使用しなければならない。
    7月26日に発表された「ポツダム宣言」にたいして、アメリカはソビエトの署名を求めなかった。
    その炎が燃えさかった時、スターリンは新大統領(トルーマン)がなぜかくも強硬だったかを知るだろう。
    福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)
    -----------------------------------
    「そりゃもう目もあてられん状態じゃけェ、あっちにもこっちにも黒焦げになった人が転がっとるんよ。だれがだれやら見分けがつかんのじゃ、むごいことじゃ。あっちこっちで焼いとるんじゃけェ、たまらんのよその匂いがのう、赤ん坊を抱いたまま死んどってんよ、電車でも焼け死んどりんさる。腐って蛆がわいとりんさる。薬がないんよ、ヨードチンキを塗るぐらいじゃのう、死に水をとったげるためにきたようなもんじゃよ」
    新藤兼人氏の姉の話)
    新藤兼人氏著『新藤兼人・原爆を撮る』新日本出版社、p.10)
    -----------------------------------
    6月6日にスチムソンは、5月31日の暫定委員会の決定を大統領に報告した。その時には、「大量の労働者を使用し、労働者住宅群にびっしり取り囲まれている重要な軍需工場」という投下目標が実際には住民の大量殺教を意味することは知っていたのである。
    したがって、トルーマンが日記に書いている女、子供を投下目標にしないというスチムソンとの合意を額面通りに受け取ることは到底できない。
    実際にも原爆による直接の被害を受けたのは、軍人よりも圧倒的に多数の民間人であった。
    広島の場合でいえば、軍人の被爆者は4万人以上、軍人以外の直接被爆者の数は31万から32万人であったと考えられている。
    また被爆者の意識には、「原爆によってもたらされたのは、一瞬にして人間や人間の生の条件そのものを壊滅させ炎上させる非人間的な世界、ホロコーストの世界にも匹敵できる地獄」としてとらえられている。
    そのような被爆のイメージをあらわしたものに深水経孝(ふかみのりたか)の絵物語『崎陽(きよう)のあらし』がある。
    被爆した後中学教師となった深水は、被爆体験を記録として後世に残すため、まだ惨劇の記憶の生々しい1946年夏にこの絵物語を描いた。
    そこには天を仰いで路上に倒れる女、子供、母子、両眼を失い天に祈る乙女、火焔をあげるバスの中で倒れ這いだそうとして力尽き焼け焦げる人、火中に退路を絶たれ防火用水に飛び込み悶絶する人々などが燃えさかる市街を背景に描かれ、心にやきついた被爆の原風景が如実に再現されている。
    深水は絵に添えた文章のなかで、この原風景を「古の修羅もかくて」とか、「いずれも悲しきことながら、之の世の事とも思われず」、あるいは「されどこれ、地獄というも愚かなり。想え、外道、天日の晦きを」などと形容している。
    被爆直後の心象として刻まれた世界は「この世の外」、「地獄」、「外道」 の世界、まさに人間が非人間化されるこの世の終末、すなわちホロコースト(※ナチス・ドイツユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺)の世界であった。
    (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.174-175)

    ソビエト軍満州進攻(対日宣戦布告、S20.8.8)
    モロトフ外相:「・・・日本はポツダム宣言の受諾を拒否したので、ソ連に対する日本の和平調停の提案は、まったくその基礎を失った。
    日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連の対日参戦を提議した。
    ソ連ポツダム宣言に参加し、明日、すなわち8月9日寄り、日本と戦争状態にあるべきことを宣告する」
    ******************************
    ソビエト軍将兵160万人、戦車等5000台余り、航空機4000機以上という圧倒的兵力で満州になだれ込んだ。
    ソビエト軍は、南へと逃れる開拓団の老若男女を殺戮し、ハルビンで、新京で、奉天で、破壊と略奪の限りを尽くした。
    満州国の充実した重工業の設備を肇、主要な機械や財貨などすべてがソビエトに持ち去られた。
    そのなかには、何ら国際法上正当性にない仕方で連れ去られ、抑留された60万人の将兵や官吏らもいた。
    <日本人難民、棄民、捨駒以下、中学生の囮兵(おとりへい)>
    軍および政府関係の日本人家族だけが、なぜ特別編成の列車で新京を離れられたのか。
    この年の秋までに日本へ帰りつ いた人びともある。
    生き残ったことを責めようとは思わない。
    しかし、決定権を持ち、いち早く情報をとらえ得た人たち、その家族の敗戦は、一般の在満居留民とは異なった。
    身勝手な軍人たちの判断の詳細とその責任は、現在に至るまで明らかにされていない。
    軍人たちにより、明白な「棄民」がおこなわれた。
    軍中央も政府も、承知していたはずである。
    切り棄てることが決まった土地へ、女学校と中学校の三年生が動員されている。
    たまたま私は、その動員学徒の一人として開拓団生活を体験している。
    それを小さな文章に書いた縁で、新京第一中学校三年生の「運命」を知った(英文学者の小田島雄志氏の同級生たち。小田島さんとわたしには、新京室町小学校の一年一学期、同級だった縁がある。知ったのは何十年ものちのこと)。
    新京一中の三年生は三つのグループに分けられ、そのうちの126名が5月28日、「東寧(とうねい)隊」として東満国境近くの東寧報国農場に動員された。
    この日付は、大本営が「朝鮮方面対ソ作戦計画要領」を関東軍に示達する2日前。
    同要領によって、京図線の南・連京線の東という三角地帯が定まったのだが、南満と北朝鮮へ重点変更の作戦計画は、20年1月上旬にはじまっていた。
    さらに新京一中生の動員は、予定よりも1か月間延長になっている。
    8月9日未明、ソ連参戦。
    東寧は穆稜(ムリン)などと同様、国境にいた関東軍がほとんど全滅した一帯である。
    関東軍にあって、国境部隊は時間かせぎの捨駒以下だった。
    『人間の条件』の主人公は、穆稜の戦闘で奇蹟的に生きのこる。
    作者自身の体験が裏付けにある。
    東寧の陣地には、彫刻家の佐藤忠良氏もいて、「地獄」を体験、ソ連軍の捕虜となり、シベリア送りとなった。
    現役部隊がほぼ全滅し、生きのこる成算のほとんどなくなる国境地帯へ、なぜ14か15の中学生を動員したのか。
    しかも、ソ連参戦まで動員は継続された。
    列車は不通となり、国境線の戦闘が終ったあと、中学生たちは歩いて新京の親もとまで帰る。
    大陸の広大さ、伝染病と餓え、北満のきびしい寒気、そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪。
    中学生たちは70余日の避難行をし、乞食姿の幽鬼のようになって新京へたどりつくが、四人が途中で亡くなった。
    体験者の一人谷口倍氏が『仔羊たちの戦場-ボクたち中学生は関東軍の囮兵だった』を出版するのは1988年。
    体験から40年以上経ってである。
    澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』 岩波現代文庫. p210-213)

    ●ふたたび原爆投下:長崎(S20.8.9=プルトニウム
    ソ連の対日参戦の影響を力をできるだけ少なくせねばならぬ。
    <祈りの長崎>(永井隆の弔辞)
    原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の霊魂は一瞬にして天主のみ御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではありません。
    神の摂理によってこの浦上にもたらされたものです。
    これまで空襲によって壊滅された都市が多くありましたが、日本は戦争を止めませんでした。
    それは犠牲としてふさわしくなかったからです。
    神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたのです。
    そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。
    子羊として神の手に抱かれた信者こそ幸福です。
    あの日、私たちはなぜ一緒に死ねなかったのでしょう。
    なぜ私たちだけが、このような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。
    生き残った者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。
    罪多きものが、償いを果たしていなかったから残されたのです。
    日本人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に満ちています。
    この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではないでしょうか。
    カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキリストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。
    神が浦上を選ばれ燔祭に供えられたことを感謝いたします。
    そして貴い犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。
    願わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに憩わんことを、アーメン」
    (鈴木厚氏著『世界を感動させた日本の医師』時空出版、pp.28-29)
  • 昭和20年8月9日御前会議、天皇の発言
    「開戦以来、陸海軍のしてきたところをみると、どうも、計画と実際が違う場合が多かった。いま陸海軍では、先程、大臣と総長が申したように、本土決戦の準備をしており、勝つ自信があるといったが、自分はその点について心配している。先日、参謀総長の話では、九十九里浜の防備は八月中旬に完成するということであったが、侍従武官が現地を見てきたところでは、八月末にならなければできないという。また新設師団ができても、これに供給する兵器は準備されていないという。これでは、あの機械力をほこる米英軍に対して、勝算の見込みがない。こうした状況で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。空襲は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおちいれ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、自分の欲しないところである。忠勇な軍人より武器を取り上げ、忠勤をはげんだ者を戦争犯罪人とすることは情において忍び得ないが、国家のためにはやむをえない。明治天皇の三国干渉の際の決断にならい忍び難きを忍び、国民を破局から救い、世界人類の幸福のために、このように(筆者注:ポツダム宣言受諾)決心した」
    (実松譲著『米内光政正伝』光人社、p.335)
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    陸相の布告(アホ丸出し、S20.8.11読売新聞より)
    「全軍将兵に告ぐソ聯遂に鋒を執つて皇国に寇す名分如何に粉飾すと錐も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ仮令(たとへ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし。」
    昭和二十年八月十日      陸軍大臣

「何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。
国民の方で指導側に言いたい言葉であって、指導側でいうべき言葉ではないだろう。
かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。
指導側の無策無能からもきているのだ。
しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。
鳴呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。
高見順氏著『敗戦日記』中公文庫、pp.294-295)
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【※日本の降伏とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の日本による、連合国のポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から玉音放送および日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。】

●「降伏文書」調印式(S20.9.2)
スターリンの対日勝利宣言(S20.9.2)
敗戦当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して参戦し、国後島を占拠したスターリンは対日勝利宣言を行った。

「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まっている。1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。遂にその日が到来した」。
山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.ii~iii)

●731石井細菌部隊(と栄1644部隊(通称「多摩部隊」))の残虐性、神風特攻隊、人間魚雷、竹槍訓練・・・等々。

●敗戦後の特務団の山西省残留9月9日、南京で中国における降伏調印式があった。
しかし蒋介石率いる国民党の司令長官閻錫山と北支派遣軍司令官澄田懶四郎が密約をして当時の残留兵59000人を国民党に協力させ八路軍中国共産党)と戦わせようと図った。
結果的には約2600人が山西省に残留し、敗戦後なお4年間共産軍(毛沢東)と戦った。
(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.35-42)

●シベリア抑留:約57万5000人中約6万人が死亡。
スターリンは北海道占領をあきらめる代わりに、北方四島と日本人捕虜を戦利品として獲得した。
シベリア抑留の真相は敗戦処理とその後の東西冷戦という政治的駆け引きのなかでスターリンの思いつきから生まれた公算が大きい。
保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)

★敗戦時、日本国籍の者は外地に629万702人いた。
満州国からの引き揚げにあたっては、関東軍将校が自らの家族を優先させて帰国させてしまい、民間人を見捨てたという状態になった。
中国残留孤児問題はその結末の一つである。

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<森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』(ゆまに書房)p.37より>
満州の事情は大ぶんひどいらしい。
樺太でも左様であるが、ソ聯兵の暴行が頻々として伝はれてゐるほかに、満軍の反乱が相次いで起り、満人や鮮人の暴徒が邦人を襲つたりしてゐる。
関東軍武装解除をしたのだから、もう何の力もないわけである。
そして醜態を現はしてゐるのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てゝ自分たちの家族をまづ避難さした。
満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続いて家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭つてゐる。
戦争情態(状態)に入つた新京では親衛隊が離反して皇帝の身辺が危くなつた。
そこで通化にお遷ししたのだが、通化からさらに日本にお遷しするために、奉天の飛行場までお連れして来たところを、降下したソ聯の空挺隊のために抑へられてしまつた。
それは十九日のことであるが、それ以後今日まで、皇帝の御身体は赤軍の手中にあるのである。

【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】 
# 昭和15年頃、第一線部隊の師団長、旅団長、野戦病院長までもが女と暮らしていたのには驚いた・・・。
日米開戦当時陸軍でも、海軍でも一部の幹部は陣中で兵の苦労をよそに着物姿だった。
(当時日本の軍事関係費は総予算の40%で、その60%が陸軍にまわされていた)

# 激変する雨と川の関係は、さまざまな配慮を人間に要求する。
サバのラナウーサンダカンの道路は、ボルネオを横断する唯一の道だが、
それは川から遠く離れた高い固い地面を選び選び走っている。
バス旅行に慣れた今日の人間は、自然の厳しさを忘れるようになっていく。
実際この知識と配慮がなかったために、ここを強行軍させられた日本軍兵士は、山中で無残に溺死した。
水が引くとかれらの死体は樹々の高みにひっかかっていた。
鶴見良行氏著『マングローブの沼地で』朝日選書;1994:293)

# サイパンの戦い(田中徳治氏(陸軍中将)『我ら降伏せず』(サイパン玉砕戦の狂喜と現実)などより)・・酒だ。
ムラムラッと怒りがこみあげてきた。
こんな安全な洞窟の中で、酒を飲みながら、作戦指揮とは・・・。
この連中は一体全体、昨日の無謀な戦闘を知っているのだろうか。
よくも酒など飲んでいられるものだ。
我々は部下も戦友も次々失い、空腹も忘れ、無我夢中で戦っている。
それにくらべ・・・と思うと、怒りと同時に全身から力がガックリと抜けてしまった。
我々を指揮する最高司令官がこれでは、と思うと情けなくなった、不動の姿勢が保てなかった。
気力をふりしぼってやっと報告に立った。
田中徳治:「以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘計画なくば敗戦の連続です」
斎藤義次(第43師団長・陸軍中将):「バカ! 的確な命令とは何事だ。命令を何と心得とるか。大元帥陛下の命令なるぞ。軍人は死するは本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死せばよいのだ」
田中:「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片の木の葉か、一塊の石の如く捨てれば勝てるのですか」
(斎藤はこの後田中徳治氏に「無礼者」といい、軍扇で頭を殴り、 田中氏を狂人呼ばわりして司令部を追い出した)

田中徳治氏の書にある兵士は、故郷を思い、父母の名を叫び、そして絶望的な気持ちで死んでいっている。
彼らは司令官を、そして大本営作戦参謀を呪い、恨み、そして死んでいったことだけはまちがいあるまい。
(以上、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

# いくら督促されても、「できないことは、できない」こと。
「だから、何とかしてくれ」と頼みに行ったわけである。
ところがその返事たるや「ナンだと。機材がないからどうもならんと、砲弾が輸送できんからどうもならんダと。どうにもならんですむか! キサマそれでも将校か。ここをどこだと心得トル。ここは戦場じゃぞ。これがないから出来ません、あれがないから出来ませんでは戦さはできんのだ。 将校たるものがそんな気魄のないことでどうなる。砲弾は人力で運べ。住民がいるじゃろう。それを組織化して戦力に役立たせるのがキサマの任務じゃろう。任務を完遂せんで何やかやと司令部に言って来オル。このバカモンが! 砲を押して敵に突撃するぐらいの気魄がなくてナンで決戦ができるか。この腰抜けが!……」延々と無限につづく罵詈雑言。
悲しいとか口惜しいとか言うのではない。
むしろ何ともいえない空虚感であった。
山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.164-165)

# 東条英機の残した『赤い手帳』(三男、東条敏雄氏所有)より(多少、言い訳めいたことも書き残したかったのであろうか)。
昭和一八年八月十一日
「戦局ノ進展深刻化ニ伴フ戦争的要求ト日本ニ於ケル政治 単的ニ謂ヘハ下僚政治、属僚政治ノ弊ノ根深キモノアルト。統帥ノ独立ニ立籠リ又ハ之レニ籍口シテ陸軍大臣タル職権ヲ有スルニ不拘ラス之レニ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得サルコトハ共ニ現下ノ最大難事ナリ」
解釈:戦争は行く末が見えず、益々進展し深刻化しているというのに日本の政治は・・・(混迷を極めていて、世界を相手に 戦争出来る様な情勢ではない)、一言でいえば下っ端官僚や属僚たちが幅をきかせている政治、この弊害は根深いものがある。
しかし自分は(それは良く分かっているのだが)、統帥の独立という構造にたてこもり、またそれを口実にして積極的な改善手段を実現させることが出来ない。
総理大臣と して国家の重大案件も思うに任せず、陸軍大臣として切羽詰まった戦況の打開策も、いずれも即時に処置断行することが出来ない。
これはともに今の最大の難事である。
(月刊『宝石』、平成10年6月号より抜粋)

# ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
「立つ事の出来る人間は・・寿命30日間。体を起こして座れる人間は・・3週間。寝たきり、起きられない人間は・・1週間。寝たまま小便をする者は・・3日間。もの言わなくなった者は・・2日間。またたきしなくなった者は・・明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終わるのであろうか」
昭和17年~18年)

# ブーゲンビル島ブイン飛行場(昭和18年4月頃)
飛行場のまわりは、昼なお暗きジャングルである。
マラリア蚊が跳梁し毒蛇や鰐が横行している。
こんな、とても人が住めない密林のなかで、日本海軍の男たちは戦っていたのだ。
(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

#  馬を引いて前線に届けるのが任務である。「馬は軍にとって大変大切だ。おまえらは一銭五厘の切手で召集できるが馬はそうはいかぬ。おまえらより馬のほうが大切なのである」
昭和15年召集、入隊してそこで待っていたのは、毎日のようなしごきでした。教官はお前たちの命は九牛の一毛より軽いということで兵隊の命なんか上の方では、人権なんか余り考えてなかったような気がします」
朝日新聞、H10.12.2朝刊より)

#  第三班。
そのまま聞いとれ。
今日はお前たちの担当じゃなかったけん、よかったが、お前たちの番になって、あんな真似をしとったら、おれが承知せんぞ。
お前たちのような消耗品は、一枚二銭のはがきで、なんぼでも代わりが来るが、兵器は、小銃は、二銭じゃ出来んからな。
銃の取り扱い方、手入れ法を、ようと勉強しとけよ。
大西巨人氏著『神聖喜劇<1>』光文社文庫、p.97より)

# これが戦争なんだ。これが軍隊なんだ。       
上官が家々を物色して回る「徴発」 を命じた。
村民はクモの子を散らすように逃げまどった。
「背に弾を打ち込め」と命令されたが 銃身をわずかに空に向けて外した。
食料はないか、家畜はいないか。
一軒一軒をのぞいて回った。
ある民家の土間に老女がうずくまって いた。
・・・その老女は逃げる体力も気力も持ちあわせていないように思えた。
一抱えもある鉄鍋の下にかぼそい炎が見えた。
「何か炊いている」食い物にありつけるかも知れない。
腹をすかせた兵士たちの期待が膨らんだ。
老女は恨めしそうな目を投げかけてきた。
「あんたら日本人は何でも奪う」、そう言いたげな刺す様な視線だった。
・・・鍋に近付いた。
その中に、黒ずんだものがかすかにブスブスと動いていた。
何の臭いもしなかった。
・・・老女が煮ていたものは、ただの土。
何のために?。・・・
朝日新聞、H10.11.30日朝刊より)

絶叫でもなく、悲鳴でもない。
動物の呷きにもにた男の声が残った。
暴れる男は太い幹にくくりつけられた。
何が始まるのか初年兵全員が分かっていた。
・・・「突け!」。
剣のついた小銃を持った初年兵が木に向けて走った。
・・・約50人の初年兵が次から次へと突いた。
男の内蔵は裂け、ぼろぞうきんのようになった。
体はどす黒い血の塊となって木の下に崩れた。
朝日新聞、H10.12.1日朝刊より)

# われわれが連れていかれたのは、寧武(ねいぶ)にある処刑場です。
荒れ地で、城壁の角地でした。
そこへ、綿入れの便衣を着た中国人五十数人がじゅずつなぎに連行されてきました。
そこでは、すでに数人の将校によって「試し斬り」がおこなわれていました。
手をしばられた中国人の首を刀でバサッと斬っているのです。
ところが下手な将校は、刀の扱いがうまくできずに頚動脈を切ってしまうものだから、血が噴き出している。
あわてて刀を何回も振り下ろしています。
一回で首を切りおとせなかったのです。
むしろ下士官のほうがうまくて、片手にもったサーベルをパッと振り下ろすと、首がごろっと落ちる。
私は仰天しました。
いままでこんな恐ろしい場面を見たことがなかったからです。
つぎからつぎへとくりひろげられる悽惨な光景に、体はふるえ、こわばつて目も開けられない状態でした。
そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。
正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。
銃剣で、後ろ手にしばられ立たされている中国人を突き刺すのです。
目隠しもされていない彼らは、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてたまらない。
しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。
私は目が開けられず、目をつむったまま、当てずっぼうに刺すものだから、どこを刺しているのかわかりません。
そばで見ている古年兵にどやされ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。
どのくらい、蜂の巣のように刺したかわかりません。
しまいに、心臓にスパッと入った。
そうしたら「よ-し」と言われて、「合格」になったのです。
こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕立て上げられたのでした。
(奥村和一・酒井誠氏著『私は「蟻の兵隊」だった』岩波ジュニア新書、pp.22-23)

# 私は既に日本の勝利を信じていなかった。
私は祖国をこんな絶望的な戦いに引きり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。
一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等におくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。
しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて行くおもちゃのような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。
大岡昇平氏『俘虜記』より)

# 軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。
しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。
前に週刊朝日でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに”人道的”といえるのである。
前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させていただこう。
「・・・船中は予想外の混乱なり。船艙も三段設備にて、中隊176名は三間と二間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず。銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導をつづけていることは疑問なり」。
これ以上の説明は不要であろう。
2間に3間は6坪、これを3層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言いかえれば、ひざをかかえた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。
それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべてが、この世の情景とは思えなくなるほどであった。
その中の空気は浮遊する塵挨と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船艙の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーッと見え、む-っとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もべタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。
だ が、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は、窒息か発狂かである。
従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板 へと出ていく。
しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。
一言でいえば、前述したプラットホームである。
そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが、文字通り「一日仕事」。
人間は貨物ではない。
貨物なら船艙いっぱいにつめこめればそれですむ。
しかし、人間には排泄がある。・・・
山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.63-64)

# 「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2発で15秒で沈む。3000人のうち助かるのは12、3名」。
山本七平氏著『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、p.67)

# 師団長や参謀たちが何だというのだ。
彼らは私にとって、面と向かって反抗できない存在だ。
その点では班長や下級将校も同様だが、班長や下級将校は、私たちと同様に彼らに使われているのだ。
あいつらやあいつらよりもっと上の連中たちが、こんな馬鹿げた戦争をしているのだ。
ああいう連中になりたがっている連中もいるわけだが、しかし、私は、結局は、あいつらに使われる状態から逃れられないのだ。
私は、彼らに対して、そう思っていた。
挙国一致だと。
糞食らえだ。
尽忠報国だと。
糞食らえだ。
心中ひそかに悪態をついてみたところで、もうどうなるものでもない、と思いながら、私は悪態をついていたのだ。
気力なし、体力なし、プライドなし、自信なし、希望なし。
悪態はついても、恨みも不平もなかった。
私は、もう、なにがどうでもいいような気持になっていたのだ。
龍陵の雨を、寒さを、漆黒の闇を、草を、木を、土を、空を、星を、運を、思い出す。
その中で、常時、死と体のつらさに付き合っていたことを思い出す。
歩けないのに歩かなければならないときの苦しさを思い出す。
古山高麗雄氏『龍陵会戦』(文春文庫)p.52)❞


#沖縄守備軍全滅
#国民義勇隊
#国民総員特攻化
#ポツダム宣言受諾
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#長崎原爆
#ソ連対日宣戦布告
#ソビエト軍の満州進攻
#シベリア抑留

 


 


 

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