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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(021)昭和20年(1945年)硫黄島玉砕・「大和」・沖縄戦・東京大空襲・日本本土無差別爆撃❞

❝USA第51州の実態(021)昭和20年(1945年)硫黄島玉砕・「大和」・沖縄戦東京大空襲・日本本土無差別爆撃❞

(※文字規制に「*」で対応しています)

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎

(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

 

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

 

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。

 

学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞



プロローグ

 

 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

 

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞



❝USA第51州の実態(021)昭和20年(1945年)硫黄島玉砕・「大和」・沖縄戦東京大空襲・日本本土無差別爆撃❞



目次



・人肉*しょく事件(S20.2.23~25):父島事件
硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26):東京より南1080kmに位置。
戦闘49日、陸海軍23000人全滅、米軍*四傷者28686人(6821人*四亡)。太平洋戦争最大の*四闘。
<名将栗林忠道中将の最後の電文より>
●吉田久大審院判事が鹿児島二区の翼賛選挙訴訟に無効判決を下す。
東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
陸軍記念日奉天勝利の日)
・「軍事特別措置法」(S20.3.28)
●米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
・戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
沖縄戦沖縄県民の悲劇(S20.3.26~6.23)
アメリカ、F. ルーズベルト大統領急死(1945.4.17)
・ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)
●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ

 



本文

 

❝・人肉食事件(S20.2.23~25):父島事件
秦郁彦氏著『昭和史の謎を追う<下>』、大岡昇平氏著『野火』などを参照)
--------<休憩:サウジアラビアアメリカ>--------
米国は第二次大戦で石油の重要性を再認識し、豊富な埋蔵量をもつサウジを重要な石油供給源として位置づけ、関与を強めていく。
石油は単にサウジ経済の柱となったばかりではない。
石油を媒介として、サウジと米国の関係が経済から安全保障の分野にまで拡大、緊密化していったのである。
それを象徴したのが1945年2月、スエズ運河洋上でのアブドゥルアジーズと米国のローズヴェルト大統領との会見であった。
ここに石油と安全保障を機軸とした、堅固で相互補完的な両国間の「特殊な関係」が完成する。
しかし、パレスチナ問題に対する政策の食い違いなどいくつもの課題を取り残したままであり、この関係は切っても切れないと同時にきわめて傷つきやすいという相矛盾した性格を引き摺っていく。
(保阪修司氏著『サウジアラビア岩波新書、p.11)
--------------------------------------------------
硫黄島全滅(S19.12.8~S20.3.26):東京より南1080kmに位置。
戦闘49日、陸海軍23000人全滅、米軍*四傷者28686人(6821人死亡)。太平洋戦争最大の*四闘。
栗林忠道中将 vs ホーランド M. スミス。
硫黄島の滑走路が敵にとられると、本土大空襲が可能になるのであった。

 

<名将栗林忠道中将の最後の電文より>
戦局、最後の関頭に直面せり。
敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。
特に想像を越えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。
然れども飽くなき敵の猛攻に相次で*タオレ、為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御託申上ぐ。
今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、塾々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。
茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永に御別れ申上ぐ。(後略)
梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.18-19)
※ この電文に書き添えてあった、3首の辞世のうちの1首...
国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しきは最後の句”散るぞ悲しき”が大本営により改ざんされ ”散るぞ口惜し”として新聞発表されていた。
梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、p.23)
※ 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場である。
当初、大本営硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。
それが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。
その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるをえなかった。
防衛庁防衛研修所戦史室による戦史叢書(公刊戦史)『大本営陸軍部10 昭和二十年八月まで』は、硫黄島の陥落を大本営がどう受け止めたかについて、以下のように記述している。
軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期していたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統帥に感歎するものの、格別の反応を示していない。
「喪失についてはある程度予期」していたから「格別の反応を示」さなかったという。
2万の生命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか。
実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営
その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが*四んでいく。
将軍は腹を切る。
アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。
その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。
合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに”甲斐ある*四”を与えたかったに違いない。
だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。
梯久美子氏著『散るぞ悲しき』新潮社、pp.228-229)



  • 吉田久大審院判事が鹿児島二区の翼賛選挙訴訟に無効判決を下す。
    (S20.3.1)
    主文:昭和十七年四月三十日施行セラレタル鹿児島県第二区ニ於ケル衆議院議員ノ選挙ハ之ヲ無効トス 訴訟費用は被告の負担トス
    ・・・翼賛政治体制協議会のごとき政見政策を有せざる政治結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法
    の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなりやは、大いに疑の存する所・・・(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.1153-154)



  • 東京大空襲(S20.3.10):M69焼夷弾による首都壊滅。
    罹災者100万人以上、*四者83793人、負傷者40918人(11万以上との報告もある)を数えた。(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.165)
    日本は3月10日にはじまって4月16日までに12回も大空襲を受けた。
    その内訳は東京(3.10)、名古屋(3.12)、大阪(3.13)、神戸(3.17)、名古屋(3.19)、名古屋(3.25)、東京西部(4.2)、東京(4.4)、東京周辺・名古屋(4.7)、東京(4.12)、東京市街(4.13~14)、東京・横浜・川崎(4.15~16)で、消失戸数全71万 戸、戦災者数全314万にのぼった。
    清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.337-338)
    --------------------------------------    
    「何千何万という民家が、そして男も女も子どもも一緒に、*やかれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは何か。*きょう信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそすべての日本人は真に悟らねばならない」
    (昭和20年6月12日)
    「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。皆が平和を望んでいる。そのくせ皆が戦争、戦いが嫌さに戦っている。すなわち誰も己の意思を表明できずにいる。戦争は雪崩のようなものだ。崩れおちるべきものが崩れ落ちぬかぎり終わらない」
    (7月6日)
    「首相曰く、<国民個人の生命は問題にあらず、我国体を護持せねばならぬ>と」
    (7月9日)
    --------------------------------------    
    「十時、外国文學科の会。集まるほどのこともなし。<外国を知らぬから負けたんだ>と諸教授申される。<外国を知らぬからこんな馬鹿な戦争を始めたのだ>と訂正すべきものであろう」
    (9月5日、敗戦後)
    (以上、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』 、博文館新社
    -----------------------------------------------------------    
    (付録)1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼跡を駆け回っていました。
    真夜中のたった二時間半の空爆で、10万人の人間と27万戸の家屋が焼きつくされた光景…。
    網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現できないほどだった。
    呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。
    こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と。
    炭化して散乱している*四者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。
    自分から選んだ運命ではない。
    しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには日(目)もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました。
    始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。
    完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。
    さっきも言ったように、「*くるい」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません。
    それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない。
    なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです。
    むのたけじ氏著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、pp.49-50)

    --------------------------------------    
    # ルメイは「すべての住民が飛行機や軍需品をつくる作業に携わり働いていた。男も女も子供も。街を焼いた時、たくさんの女や子供を*56すことになることをわれわれは知っていた。それはやらなければならないことだった」とのちに弁明している。
    (荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、p.166)



# 戦争終結までに空襲は中小都市を含む206都市に及び、94の都市が焼き払われた。
終戦直後に内務省の発表した数字によれば、全国で*四者26万人、負傷者42万人、その大部分が非戦闘員であった。
このようにおびただしい民間人の犠牲をだしたにもかかわらず、爆撃が軍事目標に向けられたことを強調する一方、無差別爆撃は意図していなかったとすることが、この戦争の最終段階におけるアメリカ軍の公式態度であり、この態度を固執することが非人道的な空爆にたいする道徳的批判を回避する常套手段となった。
(荒井信一氏著『戦争責任論』岩波書店、pp.166-167)



※ 何と東京・日本大空襲の指揮官ルメイには、戦後自衛隊を作ったことで勲章までくれてやったという。
ここまでくるとアホらしくて唖然としてグーの音も出ませんなぁ。
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「久美子、私はいつか、日本の都市焼きつくし、一方的殺戮、破壊の作戦を立案し、実行したカーティス・ルメイが、戦後、自分たちの側が戦争に負けていれば、自分はまちがいなく戦犯として法廷に引き出されていた、幸いにして、自分たちの側は戦争に勝った、そう言ったと教えたことがあるだろう。
『正義の戦争』が、勝利することによってのみ『正義の戦争』として成立する実例だが、その彼に、私たち『不正義の戦争』をした、そう『正義の戦争』をした側によって断じられた側の最高の指導者だった、そのはずだった天皇は、勲一等旭日大綬章という、日本の最高位に近い勲章を手ずから(カーティス・ルメイに(筆者注))授与することで、相手側の正義を追認した。それは、自分の側の戦争の不正義を、あらためて確認したことになる。
相手側に正義があれば、一方的な*サツ戟であれ破壊であれ、何をされても仕方がないーーになるのかね。
一方的な殺戮 、破壊のなかで*56される人間は、どうなるのか。ただ見棄てられる存在でしかないのか」。
小田実氏著『終らない旅』新潮社、p.265)
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陸軍記念日奉天勝利の日):アホクサ!!
陸軍記念日にあたり陸軍将兵一般に告ぐるの辞曠古の戦局下、陸軍記念日を迎うるにあたり特に陸軍将兵一般に告ぐ。
本日ここに第四十回陸軍記念日を迎う。
往時を回想して感懐転た切なるものあり。
惟(おも)うに戦局いよいよ重大にして早期終戦を焦慮する敵はいよいよ進攻の速度を急ぎかつその手段を選ばざるを想わしむ。
あるいはさきに神域を冒しまた宮城を漬すの暴挙を敢てす。
まことに恐懼憤激に堪えず。
あるいは我国体の変革を夢みて帝国の根本的崩壊を放言するが如きその不逞天人共に断じて許し難きところなり。
最近の戦局推移を察するに敵が皇土侵寇を企図しあること火を睹るよりも明らかなり。
軍は、大元帥陛下親率の下多年の伝統と精髄とを発揮して神州を護持し、国体を擁護する秋正に到れりというべし。
全陸軍将兵深く思いをここに致し外地に在りと皇土に在りとを問わず、随処に敵の野望を撃摧し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉らざるべからず。
およそ戦勝獲得の根基は至誠純忠烈々たる闘魂と必勝の戦意とに存す。
全陸軍将兵宜しく挙げて特攻精神の権化となり、衆心一致いよいよ軍人精神を昂揚し精魂を尽して敵を徹底的に撃滅せんことを期すべし。
皇国は神霊の鎮まりたまうところ、皇土は父祖の眠るところ、天神地祇挙って皇軍の忠誠を照覧ししたもう想え肇国三千年金甌無欠の皇国の真姿を、偲べ明治三十七、八年国難を累卵の危きに克服せる先人の偉績を。
最後に皇土にある将兵に一言す。
皇土における作戦は外征のそれと趣きを異にし、真に軍を中核とせる官民一億結集の戦なり。
而して総力結集の道は軍鉄石の団結の下燃ゆるが如き必勝の確信を堅持し、能く武徳を発揚して軍官民同心一体必勝の一途に邁進するに在り。
かくして身を挺して難に赴き父祖の伝統を如実に顕現せば、一億の忠誠凝って皇国磐石の安きに在らん。
昭和二十年三月十日 陸軍大臣 杉山 元
清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、pp.286-287)



※ 日本が、どうぞして健全に進歩するように-ーそれが心から願望される。
この国に生れ、この図に*四に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。
いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るようにーー「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。
清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.262)



※ 戦争を職業とするものが、人間の生命をどんなに軽く取り扱うかを、国民一般に知らせることは、結局日本のためになるかも知れぬ。
ああ。
・・・それにしても、日本人は、口を開けば対手軽く見ることばかりしており、また罵倒ーー極めて低級なーーばかりしているが、日本国民に、この辺の相違が分からぬのだろうか。
清沢洌氏著『暗黒日記』岩波文庫、p.298)



・「軍事特別措置法」(S20.3.28)
国民の一切の権利を制限し、私有財産にまで強権介入し、国民は本土決戦に備えて、いかなる抗弁、抵抗もできなくなった。



  • 米軍が沖縄本島に上陸(S20.4.1)
    ・戦艦「大和」の最後の出撃(特攻)と撃沈(S20.4.7/14:23)
    「大和」:46センチ砲9門、1億6000万円(2021年換算約2500億超)、1941年完成。
    全長263m、72808屯、27.46ノット、153553馬力。
    東シナ海の海底に眠る。
    乗員3332人中269人救助(生存者、昭和60年現在、140余名)。



 # 連合艦隊参謀長、草鹿龍之介(中将)曰く
「いずれ一億総特攻ということになるのであるから、
その模範となるよう立派に*四んでもらいたい」(アホウな屁理屈である)
# 戦艦「大和」乗員の発言
連合艦隊の作戦というのなら、なぜ参謀長は日吉の防空壕におられるのか。防空壕を出て、自ら特攻の指揮をとる気はないのか」
伊藤整一提督(中将、後に大将)
「まぁ、我々は*四に場所を与えられたのだ」
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「世界の三馬鹿、万里の長城、ピラミッド、大和」
(淵田三津雄『真珠彎攻撃総隊長の回想』講談社、p.48)
「少佐以上を銃殺せよ、海軍を救う道はこれしかない」
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# 八杉康夫上等水兵(当時)が回想する戦争
「戦争がどんなにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、
あの沈没した日だった。*知みどろの甲板や、吹きちぎれ、だれのものか形さえとどめない*にく片、重油を*四ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我れ勝ちに駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このとき、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろうか。*四ぬとは思わなかった。*56されると思った。『雪風』に拾い上げられたのは私が最後だった。それも、私と同じ年齢ぐらいの上等水兵が偶然見つけて救助してくれた。生きるか*四ぬかのほんの一分にも満たない境だった。重油の海には、まだたくさんの人が、助けてくれッ、と叫んでいた。いったい何のための戦いだったのか、どうして、あんな酷い目に遭わねばならなかったのか、戦後、私が最初に知りたいと思ったのはそれだった。私が戦後を生きるという原点は、あの四月七日にあったと思っている」と、語っている。
辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.197)
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※H18年現在、広島県福山市在住の八杉康夫氏(昭和2年生)は、H18.4.12日、筆者の住む岡山県井原市で講演された。
ストーリーは映画『男たちの大和』(辺見じゅん原作、佐藤純彌監督、2005年)に準ずるものであったが、帝国海軍は陸軍よりもはるかに人命を大事にしたらしく、「上官から『*四ね』とは一度も言われなかったし、船が沈没して海上に放り出された時の生きる方法も軍事教練のなかで教えられた」ということだった。
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# 「初霜」救助艇ニ拾ワレタル砲術士、洩ラシテ言ウ救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル 更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン。シカモ船べリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル。ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト*霧捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス。 セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、*気ラルルヤ敢エナクノケゾッテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、脂汗滴り、喘ギツツ船べリヲ走り廻ル。今生ノ地*極絵ナリ。
吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p156)

# 清水芳人少佐(当時)の戦闘詳報
戦闘が終わると、どの艦でも戦闘詳報が書かれる。戦闘詳報 は、戦略・戦術を記載し、次の戦いへの教訓ともなる報告書で、連合艦隊司令部へ提出される。「戦況逼迫セル場合ニハ、兎角焦慮ノ感ニカラレ、計画準備二余裕ナキヲ常トスルモ、特攻兵器ハ別トシテ今後残存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミスミス徒死セシムルニ過ギズ」
この「大和」戦闘詳報には、これまでの戦闘報告には類を見ない激烈な怒りがつらねられている。
沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が、「思ヒ付キ」作戦であり「ミスミス徒死セシムル」ものだったという遺憾の思いで埋まっている。
辺見じゅん氏著『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.202)



  • 沖縄戦沖縄県民の悲劇(S20.3.26~6.23)
    昭和20年3月26日、硫黄島の戦いで栗林中将が戦*四した、まさにその早朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に米陸軍第77師団が奇襲上陸。
    これが沖縄戦の始まりとなった。
    昭和20年4月1日アメリカ軍18万3000が沖縄本島の中西部の嘉手納海岸に上陸。
    5月15日は那覇周辺で戦闘激化。
    この沖縄戦は本土決戦そのもので、時間稼ぎの意味をも持って、沖縄住民は「本土の盾」として犠牲になった。
    満17歳から45歳未満の男子はみな戦争参加を強要され、軍に召集された。
    戦場では子どもや老人や婦人や負傷者といった弱い者から順に犠牲になった。
    彼等は邪魔物扱いにされ、あるいは自決やおとりを強要された。
    また泣き声で陣地が暴露されるという理由で日本軍兵士に*56された。
    兵士たちは、与えられた戦場で、やみくもに戦って*四んで行くという役割だけを押しつけられていた。
    82日間にわたる*四闘ののち守備軍約90000人が6月21日に玉砕。
    沖縄県民の*四者は15万人とも20万人ともいわれる。
    実に県民の3人に1人が亡くなったのである。



# 海軍根拠地隊司令官・大田実少将(6.13に豊見城村の司令部濠で自決)からの海軍次官あて電報(S20.6.6)                    
「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ*ささケ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 敵来タリナハ老人子供ハ*56サレルヘク 婦女子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ 毒牙ニ供セラレヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ
軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ 軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」
浅田次郎氏著『勇気凛凛ルリの色四十肩と恋愛』講談社文庫より引用、60ページ)

# 「恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」
(長谷川信、『きけわだつみのこえ』より)

# 「米軍は日本軍を評して兵は優秀、下級幹部は良好中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣といっているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々の多くが、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う。
(理知的な作戦参謀八原博道の言葉、保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より引用)

# 沖縄戦の研究者である石原昌家沖縄国際大学教授は、『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)の中で、沖縄戦の住民犠牲を、次の三つの類型に大別しています。
1.米英両軍の砲爆撃*四、2.日本軍(皇軍)による犠牲、3.戦争に起因する犠牲。
石原氏はそれらをさらに細かく分けていますが、ここでは簡略化してまとめておきます。
1. は米英軍の空襲や艦鞄射撃、地上戦での砲・銃撃、洞窟や壊への攻撃、虐*サツ*強*かんによる*四などです。
2. は日本軍(皇軍)による住民の*四で、スパイの疑いをかけたり、食料や濠の提供を渋ったなど非協力的であったことを理由とした*さつ害。
濠の中で泣く乳幼児の*さつ害や軍による濠追い出しによって砲撃にさらされたり、強制退去でマラリアや栄養失調に追いやられたことによる*四、日本軍の指示、強制による「集団*四」などです。
3. は非戦闘地域での衰弱*四、病*四、ソテツなどを食べた中毒*四、収容所内での衰弱*四、住民同士のスパイ視*さつ害、食料強奪*四、米潜水艦による疎開船、引き揚げ船などの撃沈*四などです。
注意しなければいけないのは、牛島満司令官らが自決して日本軍が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる6月22日や、日本が無条件降伏した8月15日以降も、これらの類型の中のいくつかの*四は続いていたということです。
久米島での日本軍守備隊による仲村渠明勇さん一家の虐*さつが起こつたのは8月13日だし、谷川昇さん一家が虐*さつされたのは8月20日です。
マラリアなどの病*四、衰弱*四は二、三年経っても続いていました。
目取真俊氏著『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、pp.60-61)

# 学校で教え込まれていたことと、天と地ほども隔たった日本軍の実態をまざまざと見せつけられ、あまりの衝撃に言葉を失った。(大田昌秀氏著『沖縄の決断』朝日新聞社
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戦場での体験は、わが目を疑うほど信じられないことばかりだった。
守備軍将兵は戦前から、県民の生命を守るために来た、と絶えず公言していた。
しかるに、私たちが毎日のように目撃したのは、それとは逆の光景だったのだ。
最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。
そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって「お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け」と冷酷に言い放ったものだ。
しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が「お願いです。どうか壕に置いてやって下さい」と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった。
この戦争は「聖戦」と称されていたにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。
私たちには理解の仕様もなく、ただ愕然と見守るしかなかった。
大田は同じ本のなかで、生き延びるためにわずかな食糧をめぐって味方の兵隊同士が、手榴弾で*56しあう場面を毎日のように見せつけられたとも述べている。
「日本軍に対する不信感という以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本人が見*56しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随見ました。それで鬼畜米英というのは違うなと思い始めていたんです」
佐野眞一氏著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』集英社インターナショナル、pp.402-403)
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アメリカ、F. ルーズベルト大統領急死(1945.4.17)
脳出血といわれているが、あるいは自*さつかもしれないし*56されたのかもしれない。
とにかく「私は大統領を辞めたい」と愛人に告げて*四んだ。
(そして広島への原爆投下は陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンとその操り人形たるトルーマンに委ねられた)
(鬼塚英昭氏著『原爆の秘密』成甲書房、pp.175-208)



・ドイツ軍無条件降伏(S20.5.7)<---ヒトラー自*さつ(1945.4.30)

●日本本土無差別爆撃(最高指揮官カーティス・ルメイ
# 横浜大通り公園「平和祈念碑由来之記」より
「一九四一年十二月八日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は連合国軍との間に戦端を開くに至った。その後一九四五年八月十五日に至り、わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。その間、三年九ケ月余。政・軍・官の情報統制の下、一般庶民は戦争の実相を知らされることなく、ひたすら盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ、米軍機による空爆は職烈を極め、国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け、非武装の一般民衆が多数犠牲となった。(後略)」
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.49)



# 「宇都宮平和記念館建設準備会」藤田勝春氏のノートより
「非戦闘員と、その住まいに容しゃなく襲いかかった、この無差別爆撃は、”みな*56し”空襲であった。軍都の名にふさわしく、宇都宮には数多くの軍事施設があった。が、なぜか、その施設は何ら爆撃されていないのである。明らかに、米軍の目的は、一般市民を焼き*56す、いわば”無差別絨椴爆撃”によるみな*56しにあったことは、これで理解されるところである。ところでどういうわけか宇都宮の歴史の中で最も大きな火災ともいうべきこの空襲の実態が市民に明かされていなかった。あっても、それはほんの数字的なものばかりで味もそっ気もなかった。つまり市民の眼で、市民の心で編まれた総合的な記録というものがなかったのである。そして戦後三十年を迎える今危うく歴史のそとへ押し出され、忘却の彼方へ押しやられようとしていたこの空襲の”真実の糸”が、市民の手によって編まれるようになった。痛々しい戦災の傷痕は、長い歳月の風化に耐え、やはり市民の心に静かに、しかも深く息づいていたのであった」
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.63)



# 戦時下の国民にとって、米国の撒いた”伝単(避難を促す警告ビラ)”は見てはならぬものだった。
「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか 助けたければこのビラをよく読んで下さい数日の内に裏面の都市の内四つか五つの都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。 軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊します。 けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません。御承知の様に人道主義アメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません。ですから真に書いてある都市から避難して下さい。アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です。アメリカの考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の庄迫からあなた方を解放する事です。さうすればもっとよい新日本が出来上るんです。(中略)この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内、必ず四つは爆撃します。予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい」

裏には爆撃中のB29の写真に、攻撃目標の11都市が、日本の丸い印鑑のようなかたちで刷りこまれている。青森、西宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田だった。アメリカ軍資料によると、長岡には7月31日午後9時39分、8月1日午後9時27分の2回にわたってまかれている。(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.75)

# 長岡空襲で孤児になった原田新司氏の記憶
「どこかへ避難しているとおもっていたんですね。しかし、知人に会って尋ねてみると、原田屋さん、見かけなかったなあという返事がかえってきました。平潟神社にいくと、*四体が山のようになっている。信濃川の土堤を探してもみあたりません。一日中探しまわって、疲れはてて、夕方、焼跡にかえると、火はどうにかおさまっていて、中に入ることができました。すると、瓦礫のなかから祖母や両親の持物が出てきました。箪笥の鍵、水晶の印鑑。両親の*四はその持物でわかりました。*い体は焼けただれて俯せになっていました。庭の奥のほうに井戸があったんですが、その近くから女学生のバックルが出てきた。しかし妹たちの姿はみあたりません。遺骨だけがありました……。祖母57歳、父37歳、母は38歳でした。上の妹は女学校1年生、12歳でした。そして9歳、6歳、3歳の妹たち……。みんないっペんに*四んでしまったんです。いまでも街で女の子のうしろ姿をみると、妹たちのことを想い出します。焼け*四んだ妹たちのことが忘れられませんね」
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、pp.89-90)

# 富山は人口10万人、空襲の*四者は2275人。
大被害だった。
神通川の河原では、多くの人が*四んだ。
その堤防と並行するように松川の流れている個所があるが、そこでも*四かばね累々だった。
東のいたち川でもおなじだった。
母と妹を失った政二俊子さん(三上在住)は、神通川手前の護国神社にはいったとたんに「ブスブスブスと土煙をあげる機銃掃射を浴びた」といい、「ふと土手に目をやると、黄燐焼夷弾や油脂焼夷弾が真っ赤な光の噴水を上げるように火花をひろげ、その中を黒い影がうごめいているのがうつる。
……火炎に映えた真っ赤な敵機は、無防備の都市を悠々と飛翔し、物量に物を言わせて投下を続ける。こんな火の中では、猫の子一匹助かりっこないと思われた」と書いている。
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.102)

# 熊谷空襲、長島二三子氏の詩
*四者たちよ 戦争で*四んだものたちよ赤児も 大人も 年寄りも 黄色も 黒も 白瞥轟然と声をはなって泣け 生きている者たちに その声を忘れさせるな
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.183)

# アメリカの詩人ジョン・チアルディ(日本爆撃に参加)
カーティス・ルメイがきて、作戦は全面的に変更された。ルメイは第八空軍の司令官だったが、第20空軍を引きつげというわけで、ここへきたんだった。その第20空軍に私はいた。まず戦術に変更があった。ルメイは、夜間空襲せよ。5000フィートでやれ、銃撃なし、後部にふたりのチェックマンを配置せよ、といった。これで回転銃座と弾薬の重量が変わる。日本軍は戦闘機で夜間戦うことはしない。レーダーもない。焼夷弾をおとせばいい、っていったんだ。家にすごい写真をもってるんだ。トーキョーが平坦な灰の面になつている。ところどころに立っているのは石造りのビルだけだ。注意深くその写真をみると、そのビルも内部は破壊されてる。この火炎をのがれようと川にとびこんだものもいたんだ。その数も多く、火にまかれて、みんな窒息してしまった。……私としては優秀戦士になろうなんて野心はなかった。私
は自分に暗示をかけた。*四んでもやむをえないんだってね。それには憎しみが必要だから、日本人ならだれもが*四ねばいいとおもった。たしかにプロパガンダの影響もあったが、同時に、実際自分たちが耳にしたことも作用していた。なにしろ敵なんだ。その敵を潰滅させるためにここへきてるんだ。そんな兵隊特有の近視眼的発想があった」。
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.201)

# 帰り掛けの駄賃:日本最後の空爆、小田原空爆
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.202-)

# 島田豊治氏体験記(『東京被爆記』より)
「ひとかたまりにうずくまり、降り注ぐ火の粉と飛んで来る物から身を守るため、トタン板をかぶっていた。弟の防空ずきんに火がついて燃え上がった。父が素手でもみ消していた。その間に母が見えなくなっているのに気がつかなかった。母を捜しに川岸近くまでにじりよってみたが、そこは魔のふちであった。男も女も、年寄りも子どもも、折重なって川に落ちころげていた。こうして、母を捜すこともできずに、長い悪夢の夜を過ごしたのだった。朝になり、恐ろしい光景があちこちにあった。地上の物はすべて燃え尽され、異様な臭気がただよっていた。それからの毎日は、生*四不明の母を捜すことに明け暮れた。焼けこげた*四体のまわりに品物を求め、水死体を引寄せては顔をあらためて見たりした。あちこちにバラックが立つようになってからも、病院から病院へと足を棒にして歩き続けた。どんな姿になっていてでも生きてさえいたらそれだけを祈って捜しまわったが、姿はもとより消息すらわからなかった」
(近藤信行氏著『炎の記憶』新潮社、p.224)❞

 

#硫黄島玉砕
#戦艦大和撃沈
#沖縄戦
#東京大空襲
#日本本土無差別爆撃
#カーティス・ルメイ ❞


 


 

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