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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(025)昭和20年戦後の混乱❞

USA51州の実態(025)昭和20年戦後の混乱

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞

(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎

(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。

学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ

 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。

一体それはどこから来るのだろうか?。

小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。

そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。

いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。

まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。

( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。

日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。

記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。

また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。

天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

❝USA第51州の実態(025)昭和20年戦後の混乱❞

目次 

1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)
ヤルタ会談(1945.2.4~):密約でソ連の参戦(8.9)が決定された。ルーズベルトチャーチルスターリンの密約
ポツダム宣言(1945.7.26)天皇「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらかれたのが喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲などもあって罪のない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほしい」
■8月14日正午、御前会議において、日本の無条件降伏が決定された。※陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、間一髪のところで阻止。(阿南陸相自決)
★ 1945年(昭和20年)の一年間に学ぶこと日本の歴史上には、日本近代国家のカラクリがあらわに見えていた時期がありました。
★「一億総懺悔
★ 敗戦前後の軍事物資の消滅
■9月2日、横浜港に停泊する戦艦ミズーリの上で降伏文書の調印
結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15~1952.4.28)続いた。
(9.11 東条英機自殺未遂。 不細工、ここに極まれり!!)
大本営廃止(昭和20年(1945年)9月13日)
天皇マッカーサー訪問(9月27日)例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」の写真が撮影された。40分の会見は全くの秘密にされた。
■陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)
陸軍省海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の幕を閉じた。
★政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて、直ちに崩壊してしもうた。)
★戦争は終わりを告げたが、偖て是から日本はどうなるか。
国を護る武力を有せざる日本は最早独立国ではない。 
★戦争天皇責任、天皇制廃止、天皇戦犯訴追の投書
<日本敗戦における蒋介石の演説(1945.8.15)>
★【国家も個人も、熟慮なく命を重視するようになる時代の到来】
◎戦後の復興期「人が大事、命が大事」
ーーー戦後日本の経済復興は徹頭徹尾、米国の戦争に加担したことによるものだ。
▲ 国民は、アメリカの手で悪魔の支配から解放された
▲ しかし、悪魔達は根絶やしされたわけではなかった
▲ 同時にアメリカの世界戦略の一端も垣間見えるのだ
★とにかく、ひもじかったのである。(-->都市と農村の対立、闇経済の蔓延)
・敗戦3日目には尾津マーケットとよばれる闇市や露店が、都内各所に約45000店も林立した。
#あるヤクザ曰く「おれたちがヤミ市を開いたからこそ、戦後の日本人は飢え死にせずにすんだ」
・亀尾英四郎氏(旧制東京高校ドイツ語教授)栄養失調から衰弱死
・悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で150人余の餓死者を収容した。また同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市では、733人の餓死者が出たという。もうひとつ統計をあげれば、敗戦の日から十月までに失業者は448万人(男女の合計)であったという。そこへ内地復員老(*兵?)761万人(軍人と軍属)、在外引揚者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求めてさまよっていたのである。
日本自由党結成(鳩山一郎、S20.11.9)運営資金として児玉誉士夫により、かつて軍事物資として集めたダイアモンドが提供され使われた。
・政府公認RAA(特殊慰安施設協会)結成(昭和20年8月26日)--->「インターナショナル・パレス」(売春宿、東京板橋)設置
アメリカの世界戦略の一端A級戦犯容疑者の児玉誉士夫岸信介笹川良一巣鴨プリズンから釈放
岸信介白州次郎、矢次一夫、ハリー・カーン(当時『ニューズウィーク』誌の外信部長。CIAアレン・ダレスの親友)が助けたという。またティム・ワーナー『CIA秘録<上>』によると、日米開戦時の駐日大使で岸の友人ジョゼフ・グルーも強い味方だったという。
※児玉はダイヤ・プラチナ・ウランとの取り引きで助かった。
※ CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。
※「アメリカ対日協議会(ACJ)」(いわゆる日本ロビー)設立(1948年6月)
■農地改革と家族制度の解体が占領政策の骨子となっていた。
ニュルンベルク裁判が1945年11月20日に始まった(約10か月続いた)。
1946年(昭和21年):「日本国憲法」公布。
★日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。客観的情勢は冷酷に、日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起できないであろう。自由と平和は、自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽出来るしろものではないのだ。



本文

1945年(昭和20年):大東亜戦争(太平洋戦争)終結(以下敗戦前後の補遺)
ヤルタ会談(1945.2.4~):密約でソ連の参戦(8.9)が決定された。
ルーズベルトチャーチルスターリンの密約
ポツダム宣言(1945.7.26)
天皇「わたしのことはよい。それよりも和平の道がひらかれたのが喜ばしいと思う。戦争を継続すれば、空襲などもあって罪のない国民が傷つく。受諾の方向で動いてほしい」

参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武陸相阿南惟幾は受諾反対、本土決戦を主張。戦争を知らないアホウばかりであった。
======== 海軍と陸軍の反目は終戦工作のもたつきとなって ========
======== 広島と長崎への原爆投下を誘った。また8月9日に ========
======== は極東ソ連軍の満州進出に至った。       ========

■8月14日正午、御前会議において、日本の無条件降伏が決定された。
※陸軍若手皇道派のクー・デタ計画は宮城占拠まで至ったが、間一
髪のところで阻止。(阿南陸相自決)

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★ 1945年(昭和20年)の一年間に学ぶこと
日本の歴史上には、日本近代国家のカラクリがあらわに見えていた時期が
ありました。1945年の一年間です。
米軍の原爆投下による広島・長崎の惨禍も、シベリア抑留につながるソ連の参戦も、東京大空襲も、沖縄戦もみな、国体護持の保証が得られないからと和平交渉を遅らせているうちに起こったことです。
1945年2月、近衛文麿元首相は昭和天皇に「敗戦は必至なので降伏を遅らせると国体そのものが危うくなる。だから今のうちに和平交渉をはじめるべきだ」と進言しました。
これを昭和天皇は「国体護持のためにはもう一度戦果を挙げてからでないと難しい」として近衛の進言を斥けたのです。
このあと、3月10日の東京大空襲で都心は焼け野原となりました。
3月未から6月にかけては沖縄戦で多数の民間人が死亡、このとき沖縄は完全に日本政府によって捨て石にされたのです。8月には広島・長崎への原爆投下。
このように一般の人たちが戦禍にさらされ、戦後、戦争の記憶として語られてきたもののほとんどはこの年に集中しています。
それらはみな国体護持のために和平交渉を遅らせたことによって生じたものです。
日本の国家が何を守るためにあったのか、ハッキリしているではありませんか。
それにもかかわらず、国家そのものへの疑いというものがおよそない。
それどころか、昭和天皇が国民を救うために終戦の「聖断」を下してくれたから最悪の結果をまぬがれたのだというような神話が、マス・メディアによって流され続けているのです。(高橋哲也氏著『反哲学入門』白澤社/現代書館,pp.224-225)

★「一億総懺悔」:東久邇稔彦(首相)のフザけた戦争責任論(鳥越私見
・・・一般国民の戦争責任については、敗戦直後の首相だった東久邇稔彦が、「一億総懺悔」を訴えた経緯があった。
・・・一九四五年八月二八日の記者会見で、東久適は敗戦の原因の一つとして、闇経済に代表される「国民道義の低下」を挙げ、「一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」だと唱えた。
しかしこの「一億総懺悔」論は、人びとの反発を買った。
たとえば、『毎日新 聞』への一九四五年九月八日の投書は、こう述べている。
「一人残らず反省」とか、「一人残らず懺悔」とか、一体それは国民の誰に向かっていったのか。
……終戦の聖断が下るまで自分は頑張り通して来た。
配給上の不公正や各種事業にたいする急・不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗など、戦力低下に拍車をかけたのはみな官吏ではないか。
貴官達はどの口で、誰に向って「反省しろ」だの「懺悔しろ」だのといえるのか。
自分は涙をもって問う。
特攻隊その他戦死者の遺族、工場戦死者の遺族も、罪深き官吏と一緒に懺悔するのか。
反省するのか。
小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.105)

★ 敗戦前後の軍事物資の消滅
八月二〇日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。
東久邇宮新内閣は、この命令を無視した。
マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令(「陸機三百六十三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊の司令官の手に委ねる)を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しようとする努力はまったく行われなかった。
当然のことながら、これらの物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。
これと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させるという表向きの目的の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を行うことに力を注いでいた。
後日行われた調査記録を読むと、影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行われた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあてていたとの印象は拭えない。
日本史上最大の危機のただ中にあって、一般民衆の福利のために献身しようという誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。
旧エリートたちからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかったのである。 
その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。
もともとこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのものであった。
だが、話はこれで終わったわけではなかった。
降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されていた軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。
これら物資の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五人の代表からなる委員会にその処分を委任した。
その総価値はおよそ1000億円と見積もられたが、これらの資財もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。
1947年8月、国会がこの一連の不祥事に関する遅まきながらの調査委員会を開いたとき、証言に立った1946年当時の大蔵大臣・石橋湛山は、「1000億円の価値があるものがどこに行ったのか知る者は一人もいない」と残念そうに述べている。

(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一・高杉忠明訳、岩波書店、pp.124-125より)

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■9月2日、横浜港に停泊する戦艦ミズーリの上で降伏文書の調印

結局GHQの日本占領は約6年8か月(1945.8.15~1952.4.28)続いた。
(9.11 東条英機自殺未遂。 不細工、ここに極まれり!!)

大本営廃止(昭和20年(1945年)9月13日)
天皇マッカーサー訪問(9月27日)
例の歴史的に有名な「気楽なマッカーサーと卑屈な天皇」の写真が撮影された。
40分の会見は全くの秘密にされた。

■陸軍参謀本部、軍令部消滅(11月30日)
陸軍省海軍省は昭和20年(1945年)12月1日にその歴史の幕を閉じた。70余年の歴史のあっけない幕切れだった。
その後始末のために第一復員省(陸軍系)と第二復員省(海軍系)が新設され(4か月後廃止)その業務を担当した。
両省の担当大臣は当時の首相の幣原喜重郎が兼任した。
敗戦時内地に約436万人と外地に約353万人の兵士がいたという(後半部は能勢伸之氏著『防衛省新潮新書、 pp.14-15)

第二次世界大戦が終わって、政府の形を保ったまま戦争を終えたのはアメリカ合衆国、イギリス、ソ連、中国だけだった。

★ 政党が弱いから軍部官僚の一撃に遭うて、直ちに崩壊してしもうた。
夫れのみではない。
吾々は吾々の力に依って、軍国主義を打破することができなかった。
ポツダム宣言に依って、初めて是れが打破せられた。
吾々は吾々の力に依って言論・集会・結社の自由すら解放することができなかった。
ポツダム宣言に依って、初めて其の目的を達することが出来た。
尚又、吾々は吾々の力に依って民主政治を確立することができなかった。
ポツダム宣言によって、漸く其の端緒を開くことができた。
凡そ此等の事実は、吾々に向かって何を物語っているか、遺憾ながら吾々日本政治家の無力を物語るのほか何者でもない。・・・将来は再び是れを繰り返してはならぬ。・・・(斎藤隆夫

★ ・・・戦争は終わりを告げたが、偖て是から日本はどうなるか。・・・軍備の撤廃である。
陸海空軍は悉く撤廃せられ、将来一人の軍人、一隻の軍艦、一台の飛行機も存置することは許されない。
国を護る武力を有せざる国は独立国ではな いが、此の関係に於て日本は最早独立国ではない。(斎藤隆夫) 

★ 戦争天皇責任、天皇制廃止、天皇戦犯訴追の投書

他方、天皇制廃止、天皇戦犯訴追を訴えた投書もかなりあり、こちらは長文で論理的なものが多い。

神奈川県の男性は、「東条は総理大臣、陸軍大臣参謀総長としての責任を負ふべきであり、天皇は国家の元首として、且つ又陸海軍の最高統帥者としての責任を負うべきであり、天皇制度は軍国主義の温床としての責任を負うべきであり」
「我等は東条を憎むの余り、天皇の責任までも東条に負はせてはならない」「天皇が現在平和主義者であることを声明したとしても、日本の元首として、対米英 其の他の諸国に対して戦争を承諾し、空前の惨虐事件を惹起するに至つたその責任は断じて負はなければならない」「日本を真に民主主義化するためには、この原始的、迷信的皇室制度を廃止することを考慮する必要がある」と、マッカーサーに訴えている。

熊本県の男性は、「戦争犯罪人の検挙を望む」として、「今日、政界、官僚の上層部に於て、天皇陛下には戦争責任なしと論ぜられているのは何故であるか。尚又、宣戦の大詔が論議されないのは、吾々にはどうも合点が行かぬ。憲法には、統治の大権は厳として天皇陛下が御掌握なされて居る、宣戦の布告も講和の締結も陛下がなされることになつて居る。而も陛下は大元帥であらせられる。それに何ぞや、天皇陛下に戦争責任なしとは、不合理も甚しいと思ふ。是では天皇の大権を否定することになり、又、憲法違反となり、天皇の崇厳さもなくなり、憲法も一片の反古となる。彼の宣戦の大詔は此度の戦争の原動力をなして居る。学校官公署、常会等で朝夕、是を拝聴して国民は大に発奮した。百の名士の演説よりも彼の崇厳なる大詔に感激した。然るに今日、此の大詔が何の論議とされぬとは不可解千万である」「吾々は天皇陛下の統治の大権を確認して居るものである。又、それ故に戦争責任者の最高は天皇陛下にあらせられると思ふ」と述べている。

神奈川県の別の男性は、「天皇制廃止論」として、「明治維新以来の日本の支配者たる軍閥・官僚が彼等の人民に対する支配を強固たらしめる目的の為に非科学なる神話・伝説を利用し、天皇を神秘化し、神聖化し現神人(ママ)として国民を教育し、信じ込ませた。その結果、無智なる一般人民は今なほ天皇を神の如くに崇拝している。この状態では人民の頭を民主主義的に切換へる事は絶対に不可能である。それには天皇の封建性、非民主主義性、軍国主義性を徹底的に暴露してその地位より追放し、日本を共和国にする事が絶対に必要である」「日本天皇は日米戦争を誘発し、遂行せる戦争犯罪人である。日米戦争は開戦前に天皇の出席せる所謂、御前会議に於て天皇の裁可の下に決定せるものである」「天皇は最大の戦争犯罪人である。速に彼を逮捕して裁判にかけよ」と訴えた。

東京都の男性は、「私は天皇制廃止を希望するものであります。然して私は共産主義者では有りません。共産主義は私の嫌悪する所のものであります」「新開や世間では共産主義者以外は天皇制打倒などと云ふ事を云ふ者はない様ですが、一般国民は何も天皇制を熱望し、天皇制でなければならないと云ふわけではないと思ひます。日本人は成行きにまかせると云ふ考へであろうと思ひます。私はどうしても天皇制廃止以外には新日本建設はないと思ひます」と述べた。

茨城県の匿名の男性は、マッカーサーに宛て「閣下は日本を民主国家にされると申されました。誠に有難いのですが、閣下は未だその根本にメスを加へられません。それは天皇です」「閣下は今この小さな犯罪者のみ捕へて居ります。私は天皇をその優にして閣下が日本国を去られることを恐れるのです」「どうぞ閣下の手によつて三千年来日本土民を瞞着し来れる天皇及其一族を処罰して下さい。そして永遠にこの日本に皈(かえ)れない様にして下さい」・・・
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<下>』講談社、pp.19-21)

小田実の回想
小田がうけた「致命的な傷」とは、1945年8月14日の大阪空襲だった。
当時は中学一年生だった小田は、恐怖の時間を粗末な防空壕で過ごしたあと、米軍機がまいた、日本の無条件降伏を告げるビラを拾った。
そして翌日の正午、降伏を告げる放送があったときの心情を、小田はこう回想している(『小田実全仕事』第八巻六四貢)。

私は疲れきっていた。
虚脱状態だった。
火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。
何を考える気力もなかった。
それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。
それこそ、何もかも。
たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。
…渦まく火焔を見た。
…黒焦げの死体を見た。
その死体を無造作に片づける自分の手を見た。
死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。
高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。
一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。
人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。
そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。

小田によれば、そこには「輝かしいものは何もなかった。すべてが卑小であり、ケチくさかった。
たとえば、死さえ、悲しいものではなかった。
悲劇ではなかった。
街路の上の黒焦げの死体ーーそれは、むしろコッケイな存在だった。私は、実際、死体を前にして笑った」(八巻六五-六六貢)。

空襲の極限状況は、人間のあらゆる醜悪さを露口王させた。
小田がみた死は 、ロマンティックでも勇壮でもないのはもちろん、「悲しみ」や「苦しみ」などといった抽象的な形容をもこえた、言語を絶した「もの」だった。
小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、p.753)

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<日本敗戦における蒋介石の演説(1945.8.15)>
「同胞諸君、今や我々の頭上に勝利の栄光が輝くに至った。永い間、到底、筆舌に尽くし難い凌辱をうけながらこれに屈せず、よく戦い抜いた諸君の労苦よって我が敵は遂に我が軍門に降ったのである。我が中国人があの暗黒と絶望の時代を通じて、忠勇にして仁慈、真に偉大なる我が伝統的精神を堅持したことに対し、まさに報償を受くべき時機が到来したのである。しかしながら我々が終始一貫戦った相手は日本の好戦的軍閥であって、日本国民ではないのであるから、日本国民に対し恨みに報いるに恨をもってする暴を加えてはならない。民族相互が真に相手を信じ合い、尊重し合わなければならないということを腹の底から悟ることが、この戦争の最大の報償でなくてはならない。これによって今後、土地に東西の別なく人間に皮膚の色の別なく、あらゆる人類は一様に兄弟のように平和に暮らすことができるものと信ずる。自分はいまさらのごとく『爾の敵を愛せよ』『爾ら人にせられんと思うごとく人にしかせよ』と訓えられたキリストの言葉を想い出すのである。もしこれに反し暴に報いるに暴をもってし、奴辱に対するに奴辱をもってしたならば、冤と冤とは相報い、永久にとどまるところを知らないであろう。こんなことは決して我々正義の師の目的とするところではないのである。我々は単に敵国人をして己の犯した錯誤と失敗を承認せしむるばかりでなく、さらに進んで公平にして、正義の競争が彼らのなした強権と恐怖による武力競争に比べて、いかに真理と人道の要求に合するものであるかということを承認せしめなくてはならない。換言すれば、敵を武力的に屈服せしむるばかりでなく、理性の戦場においても我々に征服せられ、彼等に懺悔を知らしめ、これをして世界における和平愛好の一分子たらしめなければならない。この目的を達成したとき初めて今次大戦最後の目的が達せられたことになるのである」
(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.101-103)

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★【国家も個人も、熟慮なく命を重視するようになる時代の到来】
◎戦後の復興期「人が大事、命が大事」
(国家防衛をアメリカにまかせて属国的復興。-->現在にまで禍根を残す)。
ノーム・チョムスキーは私に、まさに鉈(ナタ)でぶち切るように、こんなことを語りました。

ーーー戦後日本の経済復興は徹頭徹尾、米国の戦争に加担したことによるものだ。
サンフランシスコ講和条約(1951年)はもともと、日本がアジアで犯した戦争犯罪の責任を負うようにはつくられていなかった。
日本はそれをよいことに米国の覇権の枠組みのなかで、「真の戦争犯罪人である天皇のもとに」以前のファッショ的国家を再建しようとした。
1930年代、40年代、50年代、そして60年代、いったい日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのか。
あなたがたは対米批判の前にそのことをしっかりと見つめるべきだ。

ーー陰影も濃淡も遠慮会釈もここにはありません。あるのはよけいな補助線を省いた恥の指摘でした。(p.91)

     ・・・・・

「戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担したことによっている。朝鮮戦争までは日本経済は回復しなかった。朝鮮に対する米国の戦争で、日本は供給国になった。それが日本経済に大いに活を入れたのです。ベトナム戦争もまたしかり。米兵の遺体を入れる袋から武器まで、日本はあらゆるものを製造し、提供した。そしてインドシナ半島の破壊行為に加担することで国を肥やしていったのです」という。

(そうした犯罪行為に較べれば憲法改悪は「ささい」ともいえると語ったわけです。彼から見たら、憲法の改悪なんてどうということはない。それよりも現実に戦後日本が米国の戦略的枠組みのなかでしてきたこと、それは憲法の破壊以上ではないか。恥ずかしくはないのか。彼はそういいたかったのでしょう)。(pp.114-115)

辺見庸氏著『いまここに在ることの恥』毎日新聞社

▲▲▲▲▲ 国民は、アメリカの手で悪魔の支配から解放された ▲▲▲▲▲
▲▲▲▲▲ しかし、悪魔達は根絶やしされたわけではなかった ▲▲▲▲▲
▲▲▲▲▲ 同時にアメリカの世界戦略の一端も垣間見えるのだ ▲▲▲▲▲

 ★とにかく、ひもじかったのである。(-->都市と農村の対立、闇経済の蔓延)
とにかく、ひもじかったのである。当時、政府の主食の配給量は成人一人 の一日当たりは二合一勺、約三〇〇グラム。
一食茶碗一杯分である。
それも米に換算しての「綜合配給」で、薩摩芋、大豆、小麦粉、薯のつる、もとは豚の飼料である大豆粕、さらにはいくらふかしてもガリガリの豚も食わぬ「冠水芋」などで代用して、カロリーは一日一人当たり一二〇〇カロリーにし かならなかった。最低必要カロリーは労働者一日三〇〇〇カロリー、普通人が二四〇〇カロリーと計算されているから、半分に満たぬことになる。
ただし、それさえも遅配、欠配でまともに配給されることもない。
不足分はどうしたのか。
闇ルートを頼るほかはなかったが、天井知らずのインフレのさなか、闇物価もまた鰻登りの高値で、補給はそれほど簡単というわけにはゆかない。
警視庁経済三課の調査した十月末の闇の値段表を参考のために引用しておく。
カッコ内は基準額である。
白米一升七十円(五十三銭)、薩摩芋一貫目五十円(八銭)、砂糖一貫日干円〈*砂糖一貫目千円か?〉(三円七十銭)、ビール一本二十円(二円八十五銭)、清酒二級一升三百五十円(八円)、冬オー バー一着百六十円(十八円)などなどである。念のために書いておくが、昭和二十年末の国家公務員の給与は月額最低四十円、最高五百二十円のころである。(半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

・敗戦3日目には尾津マーケットとよばれる闇市や露店が、都内各所に約45000店も林立した。

# あるヤクザ曰く「おれたちがヤミ市を開いたからこそ、戦後の日本人は飢え死にせずにすんだ」

・亀尾英四郎氏(旧制東京高校ドイツ語教授)栄養失調から衰弱死いやしくも教育家たるものは表裏があってはならないし、どんなに苦しくとも国策をしっかり守ってゆく、という固い信念のもとに生活をし続けた。(S20.10.11 死亡)

・悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で150人余の餓死者を収容した。
また同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市では、733人の餓死者が出たという。
もうひとつ統計をあげれば、敗戦の日から十月までに失業者は448万人(男女の合計)であったという。
そこへ内地復員老(*兵?)761万人(軍人と軍属)、在外引揚者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求めてさまよっていたのである。(算用数字は筆者が改変)

半藤一利氏著『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社より)

日本自由党結成(鳩山一郎、S20.11.9)
運営資金として児玉誉士夫により、かつて軍事物資として集めたダイアモンドが提供され使われた。

児玉は後の「五五年体制」の幕開け役の一人であり「裏権力」構造の主役となった。

・政府公認RAA(Recreation and Amusement Association、特殊慰安施設協会)結成(昭和20年8月26日)
--->「インターナショナル・パレス」(売春宿、東京板橋)設置
ロバート・ホワイティング氏『東京アンダーワールド磯田光一氏『戦後史の空間』などより)

アメリカの世界戦略の一端
A級戦犯容疑者の児玉誉士夫岸信介笹川良一巣鴨プリズンから釈放させ、戦争中、治安維持法違反で検挙された哲学者の三木清を敗戦後、獄死させた戦後日本の歪んだ出発を指摘して、社会学日高六郎は「児玉、岸信介、笹川は釈放すべくして釈放された。つまり釈放することのほうが、アメリカの世界戦略の本筋だった」と書いた。

(以上、立石勝規氏著『金融腐敗の原点』および、日高六郎氏著『戦後史を考えるー三木清の死からロッキード事件までー』
(雑誌『世界』昭和51年9月号)より)
岸信介白州次郎、矢次一夫、ハリー・カーン(当時『ニューズウィーク』誌の外信部長。CIAアレン・ダレスの親友)が助けたという。またティム・ワーナー『CIA秘録<上>』によると、日米開戦時の駐日大使で岸の友人ジョゼフ・グルーも強い味方だったという。
※児玉はダイヤ・プラチナ・ウランとの取り引きで助かった。
柴田哲孝氏著『下山事件 最後の証言』、祥伝社、pp.239-240より)

※ CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。
しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。(ティム・ワーナー『CIA秘録<上>』藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳、文芸春秋、pp.177-178)

※「アメリカ対日協議会(ACJ)」(いわゆる日本ロビー)設立(1948年6月):メンバーの中核は国務省内の反共の闘志(ジョセフ・グルー、ウイリアム・キャッスル、ハリー・カーン、ユージン・ドゥーマン、コンプトン・パケナム)たちであった。
岸信介は彼らに助けられた。

■農地改革と家族制度の解体が占領政策の骨子となっていた。

★日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。
客観的情勢は冷酷に、日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起できないであろう。
自由と平和は、自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽出来るしろものではないのだ。(昭和21年2月4日)
山田風太郎氏『戦中派焼け跡日記(昭和21年)』小学館、P76より)

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