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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(019)昭和19年(1944年)マーシャル諸島壊滅~疎開船「對島丸」撃沈❞

 

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞
(初稿1999.10.29)

❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」
この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ
 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。

小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)

昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞

目次

マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅(S19.1)
・フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名「○六」)の試作を命じた。
・米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)
・東條演説事件(S19.2.28):臨時の「全国司法長官会同」において東條が司法を脅した。
・中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)
インパール死の行軍(S19.1.7に認可、S19.3月8日~7月)
帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
●「湘桂作戦」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦
・連合軍ノルマンディー上陸(S19.6.6)
マリアナ沖海戦(「あ」号作戦、S19.6.19~20)
サイパン陥落と玉砕(S19.6.15-->7.7~10):「バンザイ・クリフ」
・東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)
・西部ニューギニア戦線(S19~S20)
●東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
グアム島10000人玉砕(S19.8)米軍がマリアナ諸島全域を制圧。
●S19.8.22沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。

本文

マーシャル諸島、クェゼリン本島、ルオット、ナムル壊滅(S19.1)
・フーコン死の行軍(S19.1)~メイクテーラ奪回(?)作戦(S20)
古山高麗雄氏『フーコン戦記』(文藝春秋社)より
俺たちが半月がかりであの道を踏破したのは、十九年の一月中旬から下旬にかけてであったという。
泰緬(たいめん)鉄道が完成したのは、十八年の十月二十五日だという。
すでに鉄道は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。
鉄道隊は、「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだというが、できると物資輪送が先になり、歩兵は後になった、と古賀中尉は書いている。
歩兵は歩け、である。
けれども歩兵だからと言って、歩かせて泰緬国境を越えていたのでは、大東亜戦争では勝てなかったのだ。
歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てないのである。
俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自動小銃をかかえて輸送機で運ばれていた軍隊に、途方もない長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行って、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人ずつ殺せば勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられたのだ。
******************
どれぐらい待っただろうか。
やっと一行が現われた。
徒歩であった。
副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も泥道を歩いた。
前後に護衛兵らしいのがいた。
師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元気である。
着ているものも、汚れてなくて立派である。
フーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったというが、あいつらは、食糧にも、酒、タバコにも不自由しないし、だから、元気なわけだ。しかもこうして、瀕死の兵士や、浮浪者のようになっている兵士は見せないようにと部下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道のと聞いても、わからないのである。
あるいは、わかっても意に介せぬ連中でもあるのだろうが、どうしてみんな、あんなやつらに仕えたがるのか。
いろいろ記憶が呆けていると言っても、あのとき、貴様ら浮浪者のような兵隊は、閣下には見せられん、と言った下士官の言葉も、あの姐虫と同じように、忘れることができないのである。

●海軍軍務局が呉海軍工廠魚雷実験部に対して人間魚雷(暗号名「○六」)の試作を命じた。

・米空母機動部隊トラック島攻撃~パラオ空襲(S19.2~3)
日本海軍は燃料補給に致命的打撃を被った。
トラック島(海軍最大の前進基地)の機能喪失とラバウルの孤立(S19.3)。このあと日本軍は全ての戦いで完敗を重ねた。

・東條演説事件(S19.2.28):臨時の「全国司法長官会同」において東條が司法を脅した。
「従来諸君の分野に於いて執られてきた措置ぶりを自ら批判もせず、ただ漫然とこれを踏襲するとき、そのところに、果たして必勝司法の本旨にそわざるものなきやいなや、とくと振り返ってみることが肝要と存ずるのであります。
(中略)私は、司法権尊重の点に於いて人後に落つるものではないのであります。
しかしながら、勝利なくしては司法権の独立もあり得ないのであります。
かりそめにも心構えに於いて、はたまた執務ぶりに於いて、法文の末節に捉われ、無益有害なる慣習にこだわり、戦争遂行上に重大なる障害を与うるがどとき措置をせらるるに於いては、まことに寒心に堪えないところであります。
万々(が)一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政府と致しましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ずることをも考慮せざるを得なくなると考えているのであります。
かくしてこの緊急措置を執らざるを得ない状況に立ち至ることありと致しまするならば、この国家のためまことに不幸とするところであります。
しかしながら、真に必要やむを得ざるに至れば、政府は機を失せずこの非常措置にも出づる考えであります。
この点については特に諸君の充分なるご注意を願いたいものと存ずる次第であります(以下略)」
(清永聡氏著『気骨の判決』新潮新書、pp.134-135)

・中学生勤労動員大綱決定(S19.3.29)

インパール死の行軍(S19.1.7に認可、S19.3月8日~7月)
チンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン山脈を越えて、インドのアッサム州に侵入しようとした作戦。
補給がなければ潰れるのは当然。
稀にみる杜撰で愚劣な作戦だった。
(司令官:牟田口廉也[むたぐち れんや]、10万人中7万人死亡。なお牟田口の直属上司はビルマ方面軍司令官河辺正三だった)。
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インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
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インパール作戦での日本兵の敵
○一番目:牟田口廉也(および日本の軍部)「インパール作戦」大敗後、作戦失敗を問われた牟田口は、こう弁明した。
「この作戦は″援蒋ライン”を断ち切る重要な戦闘だった。この失敗はひとえに、師団の連中がだらしないせいである。戦闘意欲がなく、私に逆らって敵前逃亡したのだ」
部下に一切の責任を押し付けたのである。
三人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
しかし、牟田口は責任を問われることはなく参謀本部付という名目で東京に戻っているのだから、開いた口がふさがらない。
私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士たちに取材を試みたことがある(昭和63年のこと)。
彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じた。
そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、身体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだことは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通していた。(保阪正康氏著『あの戦争は何だったのか』新潮新書、p.179)
○二番目:軍部に同調する日本人のものの考え方
○三番目:雨季とマラリア(蚊)
○四番目:飢餓
○五番目:英国・インド軍

萩原の言うとおりなのかも知れない。
確かに、軍隊では、将軍の一声で、何万人もの人間の運命が違って来る。
参謀が無茶な作戦を作ると、大量の人間が死ぬことになる。
無茶と言えば、あの戦争自体が、最初から無茶だったのかも知れない。
ビルマくんだりまで行って、糧秣も兵器弾薬もろくになく、十五倍、二十倍の敵と戦うなどというのは、どだい無茶である。
あの頃は、不可能を可能にするのが大和魂だ、などと言われて尻を叩かれたが、将軍や参謀たちは、成算もないのに、ただやみくもに不可能を可能にしろと命令していたわけだろうか。
泰緬鉄道を作ることが、どれほどの難工事であるか、アラカンを越えてインパールを攻略することがどのようなものであるか、将軍や参謀たちには、まるでわかっていなかったのであろうか。
(奴ら、一種の精神病患者なんやね、病人たい、病人、軍人病とでも言えばよかかね、この病気にかかると、ミイトキーナを死守せよ、などと平気で言えるようになる。玉砕なんて、自慢にも何もならんよ、勝目のない喧嘩をして、ぶっ飛ばされたからと言うて、自慢にはならんじゃろう)。
古山高麗雄氏『断作戦』(文春文庫)pp.46-47)

大本営発表(この頃は大ウソとボカしの連続)
「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし我部隊は八月上旬印緬国境線付近に戦闘を整理し次期作戦準備中なり」
※桑原真一氏(日本-イギリス戦友会交流世話人
「あの作戦の目的について、私は今も知らない。ビルマ、インドからあなたたち(注:英軍)を追い出そうとしたことだと思うが、しかしそれが目的ならあのようなかたちの戦闘は必要でない。私は、あの作戦は高級指揮官の私利私欲のために利用されたと思っている。いや私だけではない。皆、そう思っている」
保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<下>』より)
インパールを含めてビルマに派遣された兵隊33万人中19万人以上が戦死した。

帝国陸軍「一号作戦」(大陸打通作戦)を発令(S19.4)
51万人の大兵力を投じ、北京ー漢口、広州ー漢口の鉄道線沿いの重要拠点全てを占領して大陸交通を完全に支配下におくととも に、アメリカ軍の航空隊基地を破壊するという、気宇壮大、前代未聞の作戦。
斜陽日本も、この作戦では弱体の中国軍に大攻勢をかけた。
(結局は中国との和解に至らなかったのだが)

  • 「湘桂(しょうけい)作戦。[大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)]」(S19.5~11):支那派遣軍最終最大の作戦
    黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400km、さらに奥漢線、湘桂線を打通して仏印まで1400kmに及ぶ長大な区間を、16個師団・50万人の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦。
    (服部卓四郎と辻政信(当時参謀部兵站課長)の極悪残忍さがよくわかる)。
    作戦担当の檜兵団は、野戦病院入院患者の死亡37%(三分の一強)、そのうち戦傷死13.9%に対し、脚気腸炎、戦争栄養失調症等消化器病栄養病の死亡率は73.5%を占めた。
    入院患者中、「戦争栄養失調症」と診断された患者の97.7%が死亡したという。
    一人も助からなかったというにひとしい。
    前線から武漢地区病院に後送された患者の場合、栄養低下により、顔色はいちじるしく不良、弊衣破帽、被服(衣服)は汚れて不潔、「現地の乞食」以下であり、シラミのわいている者多く、「褌さえ持たぬ者もあった」と書かれている。
    全身むくみ、頭髪はまばらとなり、ヒゲは赤茶色、眼光無気力、動作鈍重、応答に活気がないなどと観察されている(19年9月下旬から10月中旬のこと)。
    日中戦争について論議は多いが、この種の臨場感ある専門家の文章に接するのははじめてのように思う。
    彼等もまた「皇軍」という名の軍隊の成員だったのだ。
    すべての戦線は母国からはるかに距離をへだてたところにある。
    しかし、中国戦線は「朝鮮」「満州」と地つづきである。
    海上だ けではなく、陸路の補給も絶え、飢餓線上で落命した多くの兵士がいたことを改めてつきつけられた。
    澤地久枝氏著『わたしが生きた「昭和」』岩波現代文庫.p194)

・連合軍ノルマンディー上陸(S19.6.6)

マリアナ沖海戦(「あ」号作戦、S19.6.19~20)
日本海軍機動部隊消滅。
新鋭空母「大鳳」(カタパルトなし)沈没。
(作戦用Z文書は米軍の手に渡っていた)
※"マリアナ七面鳥狩り"(米国評)
※渾作戦(戦艦「大和」出動):宇垣纏(最後の特攻で戦死)司令官「蒼い海がサンゴ礁を覆う南溟の果てに、大艦隊が海を圧し、脾肉の嘆をかこっている。祖国の興廃が分かれる戦機を眼前にしながら、阿呆の作戦、ただ手をこまねいて芒(む)っとしているだけ・・・」
(吉田俊雄氏著『特攻戦艦大和』より)
※宇垣纏は中将は身の毛もよだつ「桜花特攻作戦」に対し平然と出撃命令を下した。
「桜花特攻作戦」は一式陸攻の胴体の下に、頭部に1200キロの火薬を載せ、尾部にロケットを装着した小型グライダーをつけて攻撃目標まで運び、攻撃というときにこのグライダーに特攻兵士を乗せて殆んど滑空降下の形で目標艦へ突入させるというものであった。
「桜花特攻作戦」の総指揮官野中五郎中将(少佐。戦士により階級特進で大佐)は、この作戦を断じて拒否したが、掩護(えんご)機に見捨てられ、出撃後まもなく一式陸攻搭乗の野中五郎中将以下135名の乗員と三橋大尉以下 「桜花特攻作戦」隊員15名が沖縄の海に没した。 (荘子邦雄氏著『人間と戦争』朝日新聞出版pp.152-155より)
               
サイパン陥落と玉砕(S19.6.15-->7.7~10):「バンザイ・クリフ」
米軍の皆殺し作戦(ナパーム弾使用)で軍人、民間人約60000人が全滅。
南雲忠一中将自決。
(この後よりB29の日本本土爆撃が本格的にはじまった)。
南雲忠一はミッドウェー惨敗の責任を負わされサイパンへの流刑状態(悪魔の上にも悪魔がいる)だった。
南雲忠一「『サイパン』島ノ皇軍将兵ニ告グ」(直後自決)
「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国男児ノ真骨頂アリ。今米軍ニ一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシテ『サイパン』島ニ骨ヲ埋メントス。戦陣訓ニ日ク『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義ニ生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲ニ将兵卜共ニ聖寿ノ無窮、皇国ノ弥栄(いやさか)ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ」
野村進氏著『日本領サイパン島の一万日』岩波書店、p.273)

・東部ニューギニア戦線(アイタペ作戦など、S18~19)
ここは地獄の戦場だった。
約16万人が戦死、戦病死。
大本営発表では一言も触れられていない)
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<第十八軍司令官安達二十三(はたぞう)の回想>
・・・何も無いジャングルの地に投げ出すように放りこまれ、その後補給も無かった。
近代戦の最低限の条件である物資と兵站線確保。
安達はなんとかそれを獲得しようと努めた。
しかし異境の地でそれは困難を極めた。
潤沢に補給される敵の物量を前にして、まるで徒手空拳さながらに対崎したのである。
火力の差はとても話しにならなかった。
しかし何よりも兵士を苦しめたのは、食べる物が無いことだった。
餓鬼地獄という言葉がある。
まさにその言葉通りの惨状が日常となった。
制空権も制海権も完全に奪われた南涙の未開地で、飢えと病にさいなまれて死んでいったのである。
生きたまゝ死骸同然となっていく兵士たちの群れを見ながら、最高責任者として、済まないと思わぬ時はなかった。
切歯扼腕、途方も無い絶望の淵に立ちすくむ時もしばしばだった。
不屈の皇軍敢闘精神で捨て身の肉薄攻撃を繰り返したものの勝負は戦う前からついていた。
そんな状態で戦い続けなければならなかった。
それが悔しかった。
その悔しさは兵士たちも同じ筈だった。
同じ思いを抱いた者と一緒に死にたかった。
(福井孝典氏著『屍境』作品社、p.196)

---------------<ある悲しいエピソード>--------------
私たちはこの見張り所を占拠して、ここから敵の陣地を見ることにしました。
そこで私たちは一斉に銃を射って、彼らを倒したのです。
不意の攻撃ですから、彼らに反撃の余裕はありません。
全員を射殺しました。
そして、私たちはその見張り所に入りこんだのですが、私は大学を卒業していましたので、ある程度の英語の読み書きはできます。
私は、なにげなく机の上のノートを見ました。
その兵士はすでに死んでいたのですが、まだ二十歳を超えたような青年でし
た。
そのノートに書かれた英文を読むと、「ママ、僕は元気に戦場にいます。あと一週間で除隊になりますが、すぐに家に帰ります。それまで皆を集めておいて、私の帰りを待っていてください。そのときが楽しみです。・・・」という文面でした。
戦友の中で英語がわかるのは私だけでしたから、何が書いてあるんだと尋ねられたときも、どうやら報告書のようなものらしいと答えて、最後のページを被り、私はポケットにしまいこんだのです。
しかしこれをもっていると、何かのときに都合がわるいと思って、後にこっそりと焼いてしまいました。
保阪正康氏著『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.12)

・西部ニューギニア戦線(S19~S20)
苛烈な爆撃と飢餓、マラリアアメーバ赤痢脚気などが次々と若者の命を奪っていった。
司令部のお偉いさんは漁船を呼びつけこっそり逃げようとした。
指揮官は爆撃の際には防空壕の底にへばりついていた。

--------------<三橋國民氏著『鳥の詩』より>--------------
早朝、破壊されたサマテ飛行場滑走路の修復作業のため、私たち仲間の少しでも動ける何人かが、それぞれスコップを肩にして陣地を出発した。
陣地の草っ原を抜けると山径になり清原のいる砲分隊のニッパ小屋につきあたる。
すると、その小屋の高床式になっている隅の柱に、清原が両手でしがみつき、辛うじて腰を浮きあがらせた恰好でうめき声をあげていた。
私は清原が何をやっているのか見当がつかず、小屋の中に入っていった。
「きよはら!何やってるんだい。・・・どうしたんだい?」
清原は私の声を聞くなり握っていた両の手を放した。
とたんに、尻餅をついた。
こちらを振り返った清原の目に悔しげな涙が滲んでいる。
それでも清原は口もとに笑みをつくりながら、「三橋、情けねぇよ、どうにもならねぇんだ。四十度もあったマラリアの熱が、下がったと思ったら、腰が抜けちゃって立てねぇんだよなぁ。いまこの柱に掴まって何とかして立とうとしてたんだが・・・」             
げっそりと痩せこけて毛髪が茶褐色になってしまい、ほんの幾日かで皺くちゃになった日(目?)の縁、手のひらの辺りなど老人めいた容貌に一変している。
私はその時、ふっとそんな清原の状態が気になった。
腰が抜けたあと、そのまま寝こんでしまい、余病を併発して亡くなっていくケースが意外に多かったからだ。
高熱の引いたあと衰弱して、まるで老人そのもののようになってしまうのは、あまりいい経過とは言えないのだ。
アメーバ赤痢」「南方浮腫」などというのは、ほとんどがこんなふうになった体の弱点を衝いてくる命取りの病気のように思われ、誰からも恐れられていた。
軍医からは、-ーこれといって打つ手もなく、患者自身の体力に期待するだけーーといった絶望的な答えが返ってくるに過ぎなかったのである。(pp.250-251)
******************************     
「こんちは、オッサン! どこから来られたんですか」
「あぁ、兵隊さん、ご苦労さんだね、わしらは三崎漁港からだよ」
「えぇ! 三崎ですか、三浦半島の、神奈川県の・・・、よくこんなところまで・・・、どのくらいの日数をかけてこられたんですか、すごいですねぇ、こんな小さな船で、五千キロも・・」
「いやぁ、これも軍の機密とかだけどね、もう三崎を発ってから4か月日なんだよ。来る途中は随分おっかなかったよ、でも兵隊さんたちのことを思えば比べものにはならねえがね」
「これからどこへ?」
「まあ聞きっこなしさ。うるせえんだよ、防諜とかでね。だがまあいいや、赤道直下のここで兵隊さんに話したからって、敵さんに漏れるわけじゃあねえしな。この船はこれから二、三日後に司令部のお偉いさん方を乗せて、島伝いに内地まで脱出するんだとか言ってるんだがね、果たしてご注文どおりにうまくいきますかってぇところだな。だいいち、わしらがここまでやってくることだけでも精一杯だったんだからねぇ・・・。帰りの海にゃあ敵潜がうようよしてるのを知らねぇんだから、全くいい気なもんだよ、偉い人たちはねぇ」
脱出などという、いわば軍隊ではタブーとされている言葉を、私たちに平気でしゃべれるのも民間人の気軽さなのだろうか。
それとも、このような最悪の戦場に取り残されてしまう私たちを前にして、気兼ねしての言いまわしなのだろうか。
しかし、この船が軍幹部の脱出用なのだと聞かされたとき、その理由はどうであれなんとも複雑な気持ちがした。(pp.100-101)
******************************     
「あぁ、もういやだ、いやだ。三橋よぅ、このあいだの戦闘での四人の死にざまはほんとに惨めだったなぁ。おっかねえなぁ、戦争は・・・。それにしても、あの戦闘中に中助のS(鳥越注:中隊長S中尉)が何をやっていたか知ってるかい。敵さんが空からしかけてきたとき、あの野郎はドラム缶の輪っばを三つも繋ぎ合わせた壕の底にへばりついて、終わるまで出てこずじまいだったんだぜ。高射砲は空に向かって射つんだからなあ! 地面の底にへばりついていたんじゃあ指揮なんてできる訳がねえよ。あとで、中助がぬかした訓示を聞いてたかい? 『貴様らはヤマトダマシイをこめて射たんから当たらないんだ』とか言ってたなぁ。あれはたしか何処かにあった軍歌の文句じゃあねえの・・・。ひでえ野郎に俺たちは、くっついちまつたなぁ・・・。だのに、あんな中助にべたべたして、ご機嫌とりばかりをやっている中隊機関(幹部室のやつらも気にいらねえよ。俺も軍隊生活は長えけれど、こんなひでえ中隊に配属されちまったのはどうみても百年目だよ。あぁ、いやだ、いやだ。これから先、この独立中隊はどうなってしまうのか、皆は分かってんのかなぁ・・・」
佐地の言ってることは、ただ単に愚痴をこぼしているといったものではなく、内容そのものが時宜を得、的確な指摘だった。
(p.150)(三橋國民氏著『鳥の詩』角川文庫)

  •  東条内閣消滅--->小磯内閣(S19.7.18)
    「敵ノ決戦方面来攻ニ方リテハ空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ敵空母及輸送船ヲ所在ニ求メテ之ヲ必殺スルト共ニ敵上陸セハ之ヲ地上ニ必滅ス」(捷号作戦と称された)
    捷一号:比島決戦(レイテ湾海戦)
    捷二号:台湾、南西諸島での迎撃戦
    捷三号:日本本土(北海道を除く)決戦
    捷四号:北東方面、千島列島での決戦

グアム島10000人玉砕(S19.8)
米軍がマリアナ諸島全域を制圧。

  • 沖縄から本土への疎開船「對島丸」が米潜水艦に攻撃され沈没。
    約1500人が死亡、生存者は227人(学童59人、一般168人)。
    「對島丸」へは護衛船がついていたが自分の身の安全のために救助活動を行わず。
    外間守善氏著『私の沖縄戦記』角川書店、pp.19-27)❞

 

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