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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(023)昭和20年(1945年)【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】の続き❞

❝USA第51州の実態(023)昭和20年(1945年)【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】の続き❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞
(初稿1999.10.29)
❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

今回はプロローグは省略します。
今後プロローグは数回に1度記載します。

❝USA第51州の実態(023)昭和20年(1945年)【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】の続き❞

 

目次 

❝【以下、順不同に悪魔の所業を書き出しておく】の続き

★特攻隊攻撃:軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴
※おそるべき無責任
※死へのカウントダウン
※驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍兵学校出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなかった。
※関行男大尉
●特攻隊攻撃については柳田邦男氏著『零戦燃ゆ(渾身編)』や大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』に詳しく載っている。
●源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最後には参議院議員にまでなった。
<別に賞賛しないが、こういう軍人もいた>
※上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入し戦死)
※何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、享年22歳、1941.9.14の日記より)
※古川正崇(海軍中尉、神風特別攻撃隊振天隊、S20.5.29沖縄近海にて特攻により戦死。享年24歳)の決意と覚悟
※特攻隊員たちの生活一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。
※出撃前夜の様子ガンルームでの別離の酒宴席設営。
※特攻生き残り隊員への罵声
★「玉砕戦法」:昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。
戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は269人という。
# 戦艦大和甲板上、森少尉の遺言
# シベリアで仲間は死んだ。
【以上、悪魔の所業のほんの一部】

※親泊朝省大佐(陸軍報道部、沖縄出身、9月2日自決)のいう敗戦の原因
※日本のジャーナリズム
古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
※国民は家畜並。軍隊というのは最低最悪の組織だ。
※軍隊はpassion(情感)を殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところなのだ。
※阿呆と家畜のオンパレード
※戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様である。

本文

★特攻隊攻撃:軍部にみる残酷さと卑怯さの象徴(発案は服部卓四郎陸軍大佐、源田実海軍大佐、大西瀧治郎海軍中将〈直属部下:玉井浅市海軍大佐、猪口力平海軍大佐、中島正海軍中佐〉、富永恭次陸軍中将ほかの悪魔ども)。
初めて行われたのは比島沖海戦の翌日の昭和19年10月25日で、敷島隊(関行男大尉指揮〈2階級特進中佐〉)がレイテ湾の米軍艦に体当たりを敢行。
敗戦までに実に2367機が出撃した。
(因に潜水「魚雷」は海軍大将黒木博司により別に考案され最初の出撃は昭和19年11月だった)
青年達(海軍の飛行予科練習生と学徒兵)に下士官の軍服を着せて飛行機に乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。
昭和17年から乙種飛行予科練習生の徴募年齢が満14歳に引き下げられていた)。
皮肉にもこの特攻隊攻撃が原爆投下を米英に決断させることになった。

※おそるべき無責任
英文学者の中野好夫は、特攻を命令した長官が、若いパイロットたちに与えた訓辞を引用して、1952年にこう述べている。
「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。(下略)」
この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政党総裁、代議士、指導者-その他なんと置き換えてもよいであろう。
問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程において、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。
軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未熟、万事
は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹をたたいたものであった。
しかもその彼等が導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずからその完全な無力さを告白しているのだ。
扇動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。
小熊英二氏著『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.61-62)

※死へのカウントダウン
学徒兵たちは、自分たちの政府に「殺される」出撃の最期の瞬間まで読書と日記を続けた。
どんな時代や国においても、死とは孤独なものである。
こうした若者は人生の早い段階で死刑宣告を受けていたも同然で、ただでさえ短かった人生を、死の影の中で生きねばならなかった。
そのため、彼らの人生には常にこのうえない淋しさが付きまとっていた。
だが、潔く死ぬことを当然祝(視)された若き学徒兵たちは、こうした感情を公にすることはできなかった。
残された手記は、自らの行為に納得のいく意味を見出そうとするものの、最期の瞬間まで苦悩し続け、悲壮なまでの孤独感に覆われた胸中をありありと見せている。
1940年11月の日記に、林尹夫は「死にたくない!… 生きたい!」と書き連ねていた。
中尾武徳は、1942年9月に「静寂」という題の詩を書き、多くの若者たちが感じていた時間の経過に対する焦燥感を表現している。
刻々と時を刻む時計の針の音は、彼らにとって死へのカウントダウンの音でもあったのである。
中尾や他の学徒兵の手記は、人生そのものを含め、彼らが失ったすべてのものへの嘆きの声で満ちている。
(大貫恵美子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.34-35)

※驚くべきことに、悪魔らが特攻作戦を創設した際、陸海軍兵学校出身の職業軍人の中から志願したものは一人もいなかった。
(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店

※関行男大尉(23歳、第一次神風特別攻撃隊、敷島隊(5機の零戦))
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させて還る自信がある」。

  • 特攻隊攻撃については柳田邦男氏著『零戦燃ゆ(渾身編)』や大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』に詳しく載っている。
    ぜひご一読をお勧めする。
    また『はるかなる山河に』(南原繁編集)や『きけわだつみの声』(一、二集)という遺稿集もぜひ読んでほしい。
  • 源田実はのうのうと生き続けて、戦後は自衛隊に入り、最後には参議院議員にまでなった。
    つまり戦没した特攻隊員に恥じることも殉ずることもなかったのである。

-------<別に賞賛しないが、こういう軍人もいた>-------

軍令部々員の国枝兼男少佐が去る二十二日未明自決した。
かつて予科練の教官をしてゐて、その教へ子のうちから沢山の特攻隊員が出てゐる。
それ等の教へ子を先に死なせ、しかも戦争はこのやうな終末になつた。
相済まぬといふ心に耐へられなかつたのである。
最後まで役所の仕事は滞りなく片づけ、土浦の自宅に帰り、夫人に決心のほどを語りて納得させたうへ、拳銃で二人の子供を殺し、夫人をも同様の手段で殺した後、自らの頭に銃弾を打込んで果てたのである。
(森正蔵『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、pp.34-35)

※上原良司特攻隊員(20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入し戦死)
いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊(とくせんたい。後方からの味方監視部隊)としている。
しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。
我々は一部の愚者が、我々の自由を奪おうして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。
偉大なるは自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望である。

※何が愛国だ? 何が祖国だ?(佐々木八郎、1945年特攻にて戦死、享年22歳、1941.9.14の日記より)
戦時下重要産業へ全国民を動員するとか。
全国民のこの苦悩、人格の無視、ヒューマニティの軽視の中に甘い汁を吸っている奴がいる。
尊い意志を踏みにじって利を貪る不埒な奴がいるのだ。
何が愛国だ? 何が祖国だ? 掴み所のない抽象概念のために幾百万の生命を害い、幾千万、何億の人間の自由を奪うことを肯(がえ)んずるのか。
抽象概念のかげに惷動する醜きものの姿を抉り出さねばならぬ。
徒らに現状に理由づけをして諦めることはやめよう。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、 p.83)

※古川正崇(海軍中尉、神風特別攻撃隊振天隊、S20.5.29沖縄近海にて特攻により戦死。享年24歳)の決意と覚悟
出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が二十二歳の生命を散華せん」と詠つた。
さうして今その二十四歳の生命をぶち投げる時がきた。
出征の日に私は机に「雲湧きて流るるはての青空の、その青の上わが死に所」と書いてきた。
さうして今その青空の上でなくして、敵艦群がる大海原の青に向つて私の死に所を定めやうとしてゐる。
しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つてゐる。
生きてゐるといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分らない。
ただ分つてゐることは、今、日本は大戦争を行つてゐるといふこと、神州不滅といふこと、その渦中に在る日本人として私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。
絶対に死なねばならぬ。
我が身が死してこそ国に対する憂ひも、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣もいふことができるのだ。
死せずしては、何ごともなしえないのだ。
今、絶体絶命の立場に私はゐる。
死ぬのだ。
潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持のむすび目が解けるといふものだ。
桶谷秀昭氏著『日本人の遺訓』文春新書、pp.186-187)

※特攻隊員たちの生活一方、多くの士官は鬼のように振る舞った。
職業軍人たちは、自分より階級の低い学徒兵の些細な行動を不快に思う度、それを行なった本人のみでなく、隊全員に苛酷な体罰を加えた。
色川(歴史家色川大吉氏、土浦基地元学徒兵)は、学徒兵を待ち受けていた「生き地獄」について、まざまざと語っている。
「土浦海軍航空隊の門をくぐってからは、顔の形が変るほど撲られる「猛訓練」の日がつづいた。1945年1月2日の朝は、金子という少尉に二十回も顔中を撲られ、口の中がズタズタに切れ、楽しみにしていた雑煮がたべられず、血を呑んですごした。二月の十四日は、同じ隊のほとんど全員が、外出のさい農家で飢えを満たしたという理由で、厳寒の夜七時間もコンクリートの床にすわらされ、丸太棒で豚のように尻を撲りつけられるという事件が起こった。私も長い時間呼出しを待ち、士官室に入ったとたん、眼が見えなくなるほど張り倒され、投げ飛ばされ、起き直ると棍棒をうけて「自白」を強いられた。頭から投げ飛ばされた瞬間、床板がぬけて重態におちいり、そのまま病院に運ばれ、ついに帰らなかった友もあった。これをやったのは分隊長の筒井という中尉で、私たちは今でもこの男のことをさがしている」
学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の的とされた。
彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心することの許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理由である。
(大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店より)

※出撃前夜の様子ガンルームでの別離の酒宴席設営。
明日出撃の若き士官の冷酒の酒盛り、一気飲み!! ガブ飲み!! 果ては遂に修羅場と化して、暗幕下の電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持ち上げられた椅子でガラガラと次ぎつぎに破られ、真白きテーブル掛布も引き裂れて、軍歌は罵声の如く入り乱れ、灯火管制下の軍隊でこゝガンルームでの酒席は、”別世界”。
ある者は怒号、ある者は泣き喚き、今宵限りの命……。
父母、兄弟、姉妹の顔、顔、姿。
そして恋人の微笑の顔、婚約者との悲しき別れ。
走馬灯の如く巡り来り去り来る想いはつきずに。
明日は愈々出撃、日本帝国の為、天皇陛下の御為にと、若き尊い青春の身命を捧げる覚悟は決しているものの、散乱のテーブルに伏す者、遺書を綴る者、両手を組みて瞑想する者。
荒れ果てた会場から去る者、何時までも黙々と何かを書き続ける者、狂い踊りをしながら花壇を叩き毀す者。
この凄惨な出撃前のやり場の無い、学徒兵士の心境は余りにも知らされていません。
……早朝飛行場に走り昨夜水盃ならぬ冷酒の勇士は日の丸のはち巻も勇ましく爆音高く出撃!! 私は……英霊に成られし方々の日常を知り尽くしております。
私同様激しい教練の後にお定まりの制裁のシゴキが続けられていました。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.15-16)

※特攻生き残り隊員への罵声
「貴様たちはなぜ、のめのめ帰ってきたのか、いかなる理由があろうと、出撃の意思がないから帰ったことは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか!」
*****
「あの時の参謀の迎え方で、われわれは司令部の考えていたことがすべて分かりました。われわれは帰って来てはいけなかったのです。無駄でもなんでもいい、死ななければならなかったのです。生きていては困る存在だったのです」
(佐藤早苗氏著『特攻の町知覧』より)

◆  我々は故意に歪められた歴史と、その過程における ◆
◆ 政治の役割にもっと注意を払うべきである。特攻隊員 ◆
◆ たちは自分たちで語ることはもはやできない。もし、 ◆
◆ 「死者でさえ敵から安全ではない」(ベンジャミン) ◆
◆ ならば(この場合敵とは日本と欧米諸国のとの政治権 ◆
◆ 力の不平等、日本国内における政治への無関心である ◆
◆ )、彼らはポール・クレーの絵の中のような、青ざ  ◆
◆ めた歴史の天使が彼らを目覚めさせ、人間性と歴史の ◆
◆ 中に彼らの場所を確保してくれるのを待っているので ◆
◆ ある。                      ◆
◆ いかなる歴史的過程においても、全体主義政権の指 ◆
◆ 導者のような歴史的エージェントは、他の者よりはる ◆
◆ かに大きな影響力を持っていた。こういう者が人間性 ◆
◆ に対して犯した罪は決して許されるべきものではない。◆
◆  隊員たちの日記は、夢と理想に溢れた若者たちを死 ◆
◆ に追いやった日本帝国主義の極悪非道の行為を証明す ◆
◆ るものである。                  ◆
◆   (大貫恵美子氏著『ねじ曲げられた桜』岩波書店)◆

★「玉砕戦法」:昭和20年8月8日夜、ソ連軍の参戦。
本土防衛のため 国境(ソ連-満州)付近にいた精鋭部隊は帰国しており無防備状態。
予備士官学校生も急きょ防衛隊を編成したが満足な武器はなかった。
塹濠から爆弾を抱えて戦車に突進する以外に有効な手段はなかった。
(「戦後50年『あの日・・・どう語り継ぐ』」、山陽新聞(H6.8.16)より引用)

# 戦艦大和の最期がせまり、動揺する戦艦の兵士たちに向かって、 哨戒長・臼淵大尉は、囁く様にこう言うのだ。
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ 本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ
吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』、哨戒長・臼淵大尉(当時21歳)の言葉、講談社文芸文庫、p46)

戦艦大和の乗組員3332人のうち3063人が死亡、生存者は269人という。

遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給り人ノ心ニ、報イザルベカラズ 母ガ歎キヲ如何ニスベキ 先立チテ散ル不孝ノワレニ、今、母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ 母ガ歎キヲ、ワガ身ニ代ッテ負ウ途残サレタルヤ 更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ伝ウル由モナシ
 イナ、面ヲ上ゲヨ ワレニアルハ戦イノミ ワレハタダ出陣ノ戦士タルノミ 打チ伏ス母ガオクレ毛ヲ想ウナカレ カクミズカラヲ鼓舞シツツヨウヤクニシタタム
「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、 ドコマデモ生キ抜イテ下サイ ソノコトヲノミ念ジマス」 更ニ何ヲカ言イ加ウベキ文面ニ訣別ノ思イ明ラカナレバ、歎キ給ウベシ ワレ、タダ俯シテ死スルノミ ワガ死ノ実リアランコトヲ願ウノミ ワレ幸イニ悔イナキ死ヲカチ得タラバ、喜ビ給エ 読ム人ノ心ノ肌ニ触ルル思イニ、読ミ返ス能ワズ 郵便箱ニ急ギ押シ入レ、私室ヲノガレ出ズ カクシテ、ワレト骨肉トヲ結ブ絆絶タレタリ カカル折ニモ、父ガ愁イヲ顧ミルコト薄キハ如何ナル心情カ  晩酌ノ一献ヲ傾クル後姿ノ、ヤヤ淋シゲナルヲ一瞬脳裡ニ描キシノミ 世話好キノ鈴木少尉、戦友一人一人ニ、「貴様モウ遺書ヲ書イタカ」面ヲソムクル者アレバ「何ダマダ書カンノカ オ前ニハオフクロガイナイノカ一字デモイイカラ書イテヤレヨ」 促シツツ「 ペン」ヲ握ラス
吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp33-34)

# 戦艦大和甲板上、森少尉の遺言
太キ眉ノ影、月ニ冴エシ頬ニ落チタル横顔ハ森少尉ナリ
艦内随一ノ酒量、闊達ノ気風ヲモッテ聞エ、マタソノ美シキ許婚者ヲモッテ鳴ル彼 常ニ肌身ヲ離サザル写真ノソノ美貌ト、シバシバ届ク便リノ水茎(みずくき。筆)ノ鮮カサトハ、カネテ一次室全員ノ羨望ノ的ナリ 学徒出陣ヲ目前ニ控エシ一夜、初メテ彼女ノ手ヲ握り、「君ノ眼モ口モ鼻モ、コノ手モ足モ、ミンナ俺ノモノダ」ト短キ言葉ヲ残シテ、訣別セリトイウ 暗キ波間ニ投ゲタル眸ヲワレニ返シ、耳元二訴エル如ク呟ク「俺ハ死ヌカライイ 死ヌ者ハ仕合セデ 俺ハイイ ダガア奴(イツ)ハドウスルノカ ア奴(イツ)ハドウシタラ仕合セニナッテクレルノカ キット俺ヨリモイイ奴ガアラワレテ、ア奴卜結婚シテ、ソシテモット素晴シイ仕合セヲ与エテクレルグ(ダ)ロウ キットソウニ違イナイ 俺卜結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ 俺ハコレカラ死ニニ行ク ダカラソレ以上ノ仕合セヲ掴ンデ貰ウノダ モットイイ奴卜結婚スルンダ ソノ仕合セヲ心カラ受ケル気持ニナッテ欲シインダ 俺ハ真底悲シンデクレル者ヲ残シテ死ヌ 俺ハ果報者ダ ダガ残
サレタア奴ハドウナルノダ イイ結婚ヲシテ仕合セニナル 俺ハソレガ、ソレダケガ望ミダ ア奴ガ本当ニ仕合セニナッテクレタ時、俺ハア奴ノ中ニ生キル、生キルンダ……ダガ、コノ俺ノ願イヲドウシテ伝エタライイノダ 自分ノ口カラ繰返シ言ッタ 手紙デモ何度トナク書イテキタ 俺ヲ超エテ、仕
合セヲ得テクレ、ソレダケガ最後ノ望ミダト……シカシソレヲドウシテ確カメルノダ ア奴ガ必ズソウシテクレルト、何ガ保証シテクレルンダ 祈ルノカ ドウシテモ祈ラズニハ居レナイ、コノ俺ノ気持ハ本当ダ ダガソレダケデイイノカ 自分ヲ投ゲ出シテ祈レバソレデイイノカ ドウカア奴ニマデ聞エテクレト、腹ノ底カラ叫ブシカナイノカ」
荒キ語勢ニ涙ナシ セキ込ムバカリノ切願ナリ ムシロ怒リナリ 怒リヲ吐ク彼 肯キツツ言葉モナキワレ 二人ヲ蔽ウハ、コレガ見収メノ清澄ノ月空
二人ノ足ヲ支ウルハ、再ビ踏ムコトアルマジキ堅牢ノ最上甲板 許婚者ナル方ヨ 君ハ類イナキ愛ヲ獲タリ彼ガ全心コメタル祈リハ、聞キ入ラルルベシ 必ズ聞キ入ラルルベシ彼、怒レルママニ口ヲ結ビ、凝然卜足下ノ波頭二見入ル
吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、pp39-40)

# シベリアで仲間は死んだ。
朝日新聞、H10.11.29朝刊より)
食料は下になるほど上級兵にピンはねされ、飯盒のフタにエンドウが五、六ツブといった食事が何日も続いた。
一昨日は隣分隊の初年兵が栄養失調で死んだ。
昨日は山下が死んだ。
今日は隣の奴がと、毎日のように死人がでた。
収容所は全本能の闘争場だった。
陰気な、悽惨なものだった。

***************** 【以上、悪魔の所業のほんの一部】 *****************

※そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。
これは必ずしも、北条時宗の故事に遡らずとも、〔明治〕維新当時、日本の
各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば一人の西郷隆盛、一人の木戸孝充、一人の大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の伊藤博文山県有朋のごとき政治家、また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、降って、せめて加藤高明原敬、あるいは一人の山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換えられておったろうと思われるのです。
支那事変から大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く近衛文麿、曰く東条英機、曰く小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国のルーズベルト、英国のチャーチル支那蒋介石ソ連スターリン、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、いずれも世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。
また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では住井某、三菱財閥では
船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の渋沢栄一井上準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。
その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ張っていく一つの大きな原因になったと思われます。
(昭和20年、永野護氏『敗戦真相記』、バジリコ.2002;p.27-28)

※親泊朝省大佐(陸軍報道部、沖縄出身、9月2日自決)のいう敗戦の原因
その第一は陸海軍の思潮的対立である。
陸軍はドイツ流に仕立られてゐる。
陸大にはメッケルの胸像が日本戦術の開祖として立ち、その講堂にはヒンデ
ンブルグとルーデンドルフとが作戦を練る図が掲げられ学生の憧憬の的とな
つてゐる。
これに反して海軍は兵学校の講堂に東郷元帥の遺髪とともにネルソンの遺髪を安置して精神教育の資としてゐる。
しかもこの相背く二つの思潮に立つ陸海軍が日本的に結合しようとするところに云ひ知れぬ困難を伴ふのである。
また陸軍内部ではドイツ班の勢力がロシヤ班や米、英班を凌ぎ、その結果は正衡な戦政局の判断が出来なかつたのである。
第二には満州事変以後、事変を単に軍の一部の力で推進して来たといふ幕僚統帥の弊風が挙げられてゐる。
第三には軍人が軍人に賜はりたる勅諭の御旨に反して政治に介入し、軍本然の姿を失つたことである。
第四が人事の大権が派閥的に行はれ東条人事とか梅津人事とか呼ばれるに至つたこと、更に甚しいのは第一線に出されることが懲罰を意味するといふに至つては言語道断である。
第五には軍の割拠主義である。
作戦面にまで陸軍地区とか海軍地区といふものが分れてゐた結果、戦勢を不利に導いたことは少くないのである。
(森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』ゆまに書房、p.52)

※日本のジャーナリズムには、戦争を客観的に見つめる目はなく、あったとしても検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、各新聞は競って特攻を礼賛し、本土決戦を訴えた。
(星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』より)

古山高麗雄氏の回想(作家案内ーー「吉田満 寡言の人」より)
散華の世代の者の責任として、いや、人間として、戦後、自分は何をしなけ
ればならないのか、どのように考えなければならないのか、を追究する。
英霊を犬死ににさせてはならぬ、そのためには、この国を誇りある社会にしなければならぬ、と吉田さん(鳥越注:吉田満氏)は言う。
私も、この国が誇りある社会になれば、どんなにいいだろう、とは思うのだ
が、けれども私には、英霊を犬死ににさせないため身を粉にして、誇りある社会づくりに身を投じようという気はない。
散華だの、犬死にだの、玉砕だの、英霊だの、という言葉が私にはない。
私は、戦死者も、生存者も、その自己犠牲も、善意も、まったく報いられずに終わるかも知れぬ、と思っている。
それを、私たちはどうすることもできない、と言ったら吉田さんは、またまた澱のようなものが溜まるような気持になるであろう。
吉田満氏著『戦艦大和ノ最期』講談社文芸文庫、p198)

※国民は家畜並。
軍隊というのは最低最悪の組織だ。
支那事変が拡大して、大東亜戦争になりますが、大東亜戦争でも、まず集め
られ、使われたのは、甲種合格の現役兵です。
人間を甲だの乙だのにわけて、甲はガダルカナル島に送られて、大量に死にました。
敗戦後、わが国民は、二言目には人権と言うようになりましたが、戦前の日
本には、人権などというものはありませんでした。
国あっての国民、国民あっての国、昔も今も、そう言いますが、藩政時代も、明治維新以降も、日本は民主の国ではありませんでした。
忠と孝が、人の倫理の基本として教育される。
孝は肉親愛に基づく人間の自然な情ですが、忠は為政者が、為政者の受益のために、人の性向を利用し誘導して作り上げた道徳です。
自分の国を護るための徴兵制だ、国民皆兵だと言われ、法律を作られ、違反するものは官憲に揃えられて罰せられるということになると、厭でも従わないわけには行きません。
高位の軍人は政治家や実業家と共に、国民を国のためという名目で、実は自分のために、家畜並に使用しました。
私の知る限り、軍隊ぐらい人間を家畜並にしてしまう組織はありません。
貧しい農家の二男、三男の生活より、下士官の生活の方がいい、ということで人の厭がる軍隊に志願で入隊した人を、馬鹿とは言えません。
しかし、国の為だ、天皇への忠義だ、国民なら当然だ、と言われても、人間を家畜と変わらないものにしてしまう組織は憂鬱な場所です。
けれども、そこからのがれる術はありません。・・・軍隊というのは、私には最低最悪の組織です。
古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社137-138)


※軍隊はpassion(情感)を殺し、machine(機械)の一歯車に変ずるところなのだ。
(林尹夫(1945年7月28日戦死、享年24歳)の日記より)
「家に帰れなかったら、そして、この海兵団から足を洗えなかったら、気が狂ってしまいそうだ」と言う。
「いまおれは、ゆっくり本が読みたい。このぶんでは、とても戦争に行けない。”死”なぞいまのおれにとって思案の外の突発事)だ」、「…いまのおれにはそのようなパッションも気力もない。無関心、どうでもなれという自己喪失。そうだ、なにが苦しいといって、いまのような自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐにぶつかってくるという障、なのだ。生のクライマックスで生が切断される。人生の幕がおりる。あるいは、それは実に素晴らしい。ましてクライマックスのあとに、静かなる無感覚がつづき、そのあと死の使者がくる」、「それはなおすばらしい筋書だ。だが生活に自己を打ち込めぬ、そして自己を表現する生活をなし得ぬままに死んでしまうとしたら、こんな悲惨なことが、あろうか」と追いつめられた、極度に悲惨な心情を書き下す(1944年1月23日)。
この3日後の1944年1月26日には、海軍航空隊の飛行機搭乗員の選抜発表を
翌日に控え、選ばれることを願っている。
そして林は、飛行専修予備学生予定者に決定し、1944年1月28日に、兵士の待遇の過酷なことで知られていた土浦海軍航空基地に配置されることになった。
土浦に配属されて問もないころの日記には次のように書いている。
学校にいたときの、あのPatriotismus(祖国愛)の感激、一歩一歩後退を余儀なくされているときの緊迫感、そういうものは、もういまは全然ない。
だいたいpassionというものは、もう消えてしまった。
軍隊はそういうpassionを殺し、人間をindifference(無関心)にし、惰性的
に動く歯車に代えてしまうところだ。
(大貫美恵子氏著『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.130-131)

※阿呆と家畜のオンパレード
それにしても、名誉の出征に、名誉の戦死。
聖戦という言葉も使われました。
聖戦は鬼畜米英にホリーウォーと訳されて噂われましたが、アラヒトガミだとか、いざというときには大昔の蒙古襲来のときのように神風が吹く、なぜならわが国は神国だから、だとか。
よくもまあ国の指導者があれほど次から次に、阿呆を阿呆と思わずに言い、国民もまた、その阿呆にあきれていた者まで、とにかく、権力者たちに追従したのです。
あれは、全体主義国家の国民としては、やむを得ない生き方であり、世界に冠たる大和民族の性癖でもあるのでしょう。
世界に冠たる大和民族は、天皇を担ぐ権力者たちに押し付けられた言葉や考え方を否でも応でも、とにかく受け入れ、追従する者も、便乗して旗を振っている者も、みんな家畜になりました。
古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社、p.144)

※戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様である。
戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつだ。
御国のために命を捧げる、というやつだ。
本当に国を護るために、命をかけて戦うというのならいいが、あの戦争で国民が、国を護る戦争だと思い始めたのは、敗け始めてからである。
本土が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころになって大東亜戦争は、侵略の戦争から、国を護る戦争に変わったのである。
国民は、徴兵を拒むことはできなかった。
軍の敷いた法律から逃れることはできず、軍の意のままに狩り出され、物品のようにどんなところにでも送られて、殺し合いをやらされた。
あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、日本軍は、
国を護るために支那大陸を侵略したのではない。
東亜解放というのも、後追いの標語である。
国民はそれを感じながら、しかし、ロを揃えて、天皇陛下のため、国のため、と言った。
口先だけで言っていた者もいたが、そうだと思い込もうとした。
そう思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。
それを本人も、遺族も、軍の奴隷の餓死だとは思いたくないのである。
国のための名誉の戦死だと思いたいのである。
軍は、人のそういう心につけ込んだ。
辰平はそう思っている。
戦後は、天皇陛下のため、とは言わなくなったが、平和のために戦争を語ろう、などという嘘に満ちた国になった。
戦争で最も苦しめられるのは、一番弱い女と子供だ、などという、甘言が幅を利かす国になった。・・・。
古山高麗雄氏著『フーコン戦記』(文藝春秋社)より)

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