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❝USA第51州の実態(003)日露戦争ほか ❞

❝USA第51州の実態(003)日露戦争ほか

【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)

平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html


❝※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。

 

USA第51州の実態(003)

プロローグ❞
 ❝ ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
  一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。


いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)


※ 日本の「戦争被害受忍論」(最高裁判所 昭和62年6月26日 第二小法廷判決)戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところというべきである。(奥田博子氏著『原爆の記憶』、慶應義塾大学出版会、p.73)


※ 昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。

日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。

また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)
                 (後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)

 

平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎(H26年、2014年4月17日一部改定)
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html


【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)

USA第51州の実態(003)

目次

☆気がついたときは戦争になっていた。
1905年(明治38年):日露戦争(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)
日露戦争の歴史的意味
・第二次日韓協約(1905.11.17)
日露戦争後の人種問題
<余談:千人針>
★【国家が命を翻弄した時代】:軍神(?)乃木希典による命の無駄使い。
☆国民性・国民意識:「勤勉」・「努力」・「忍耐」(この頃は、あるいは強制的に作られたかも知れないが、自己を律する高邁な意識があった)。
●日露講和会議(ポーツマス):米大統領ルーズベルトの好意ある斡旋
※(日本の)調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。
●第二次日韓条約(韓国保護条約、1905年8月22日、明治38年):日韓併合※日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。
内村鑑三日露戦争より余が受けし利益」
日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」
・数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレポネーマ・パリドゥム)が発見された。

 

☆気がついたときは戦争になっていた。
 こうして主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、同時に政府を「恐露病」と罵倒することになります。
原敬によれば、こうした批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」(『原敬日記』1904年2月5日)という自制のきかない状況に自らも落ち込んでいく様子を率直に告白しています。
原はまた表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、また対露同志会などを組織せしめて頻(しき)りに強硬論を唱えしめたるは、かくしてもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。...
しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱うる勇気なし。
かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしものなり」(『原敬日記』1904年2月1言日)と観察していました。
ここには、戦争に踏み込むときの、自分でも望んでもいないにもかかわらず、制御しきれないままに、流されていって取り返しがつかなくなるという心理過程が示されているのではないでしょうか。
そして、このように自らが決断したという明確な自覚もないままに、戦争がいつの間にか近寄ってきて、「気がついたときには戦争になっていた」という思いのなかで、多くの日本人は日露戦争を迎え、さらにその後も同じような雰囲気のなかで「流されるように」いくつかの事変と戦争へと突入していくことになります。(山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)

 

1905年(明治38年):日露戦争
(国家存亡の戦い、1904.2.8~1905.9.5)
日本の背後にはイギリス、アメリカ、ロシアの背後にドイツ、フランスのある帝国主義戦争であり、その餌食となったのは朝鮮や中国であった。
藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.8)

 

日露戦争の歴史的意味
 この一連の過程、すなわち日本が韓国保護国化の権利を獲得するために、アメリカとはフィリピン、イギリスとはインドなどの植民地支配とを、その対象国の意志とは全く無関係に交換条件として決定した過程にこそ、日露戦争の歴史的意味が示されています。
また、ポーツマス条約においても遼東半島の租借権などを、これまた主権をもっていたはずの清国の意志とは無関係に、ロシアから譲渡させましたが、清国に中立を宣言させたのも、この講和条件に関与させないためでした。
しかも、日本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫(ごう)も大清国の土地を占領するの意志なき」(『日本外交文書』日露戦争I、第690号文書)旨を通告していたのですから、これにも違約します。
 (以上、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.130-131)

 

・日本連合艦隊旅順港外のロシア艦隊攻撃(1904.2.8)
・ロシアに宣戦布告(1904.2.10)
・第二回旅順港閉鎖作戦(1904.3.27):広瀬武夫戦死
乃木希典遼東半島上陸(1904.6.6)
・旅順のロシア軍要塞攻撃開始(1904.7.26)
・遼陽会戦(1904.8.25)
・徴兵令改正、後備兵役10年に延長(1904.9.28)
沙河会戦始まる(1904.10.9)
児玉源太郎参謀総長、第三軍司令部到着(1904.12.1)
・第三軍、203高地を占領(1904.12.5)
・旅順のロシア艦隊壊滅(1904.12.15)
奉天会戦奉天占領(1905.3.1~3.10)
日本海海戦(1905.5.27)
黒海戦艦ポチョムキンの反乱(1905.6.27)
樺太ロシア軍降伏(1905.7.31)
ポーツマス講和条約締結(1905.9.5)
・日露講和条約批准(1905.10.14)

 

・第二次日韓協約(1905.11.17)
韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した大臣たちは5人は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われて今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.132より)

 

日露戦争後の人種問題
日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツよりもアメリカやオーストラリアなどでした。
日露戦後の対日感情の悪化と日本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されます。
早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金とストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。
また、地理的に近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋黄色人種」への不信が表明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。
さらに、ニュージーランド南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入国が制限されることになっていきました。
こうして黄禍論(こうかろん)という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。
太平洋戦争は、「鬼畜」や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。
しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族とも距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。
なぜなら、日露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立という構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定するためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線をとらざるをえないというディレンマに陥ったからです。
そして、欧米との同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公敵」とみなされていきました。
しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。
山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)
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<余談:千人針>
愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知られる千人針の風習が本格化したのは、日靂戦争の時からでした。
千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るために、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫ってもらえばさらに効果があるといわれました。
赤い糸そのものにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。
昭和になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を祈りました。
危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもちました。
古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがことさら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるようになりました。
      (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.73-74)

 

★【国家が命を翻弄した時代】:軍神(?)
乃木希典による命の無駄使い。
(100万人の日本兵動員、死者約12万人といわれる)
<茂沢祐作『ある歩兵の日露戦争従軍日記』草思社、p.168より>
・・・糧食の給与を受けることが出来ないので、この次の兵站部へ行くことを急いで、午前八時頃に舎を出かけ三道溝 の糧餉部へ行ったが、ここは取次所で分配出来ぬとにべもなくはねつけられ、仕方なくなく吸足(びっこ)を引きずった。
・・・稷台沖まで来たら糧餉部があったから給与を願ったら、 酔顔紅を呈した主計殿と計手殿がおられて、糧食物はやられぬが米だけなら渡してやろうとの仰せありがたく、同連隊の兵三名分一升八合の精米を受領証を出してもらい受け、敬礼して事務室を出たが、その時にカマスに入った精肉と、食卓 の上のビフテキ、何だか知らぬが箱入りの缶詰をたくさん見た。
あれは何にするのであろう。
飾っておくのかしらん。
一同が今日六里ばかりの行軍に疲れたので、舎を求めて夕食を食べるとすぐに寝た。
(筆者注:戦場では、ごまめの一兵卒はいつも空腹で使い捨てなのである)。

 

☆国民性・国民意識:「勤勉」・「努力」・「忍耐」
(この頃は、あるいは強制的に作られたかも知れないが、自己を律する高邁な意識があった)。

 

 

※(日本の)調子狂いは、ここからはじまった。
大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。
講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。
国民新聞」(社長は徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。
ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。
かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。
政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。
   (司馬遼太郎氏著『この国のかたち<一>』より引用)
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※日本は自らの独立を守ることを、近代のとば口で自らに誓った。
その誓いは、道義的には、他者の独立もまた尊重するべきものでなければならないはずである。
だが、日本はその道義を破った。・・・「道義」を踏みにじらなければ生きて行けない、という自覚を、日本は近代の中で身につけてしまった。
福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

 

内村鑑三日露戦争より余が受けし利益」
日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」という演説において、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。
然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。
日露戦争も東洋平和のためでありました。
然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。
戦争は飽き足らざる野獣であります。
彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」と述べて、「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念します。
その後の歴史の推移を知っている私たちには、この予言は的確な洞察を含んだものとして響きますが、日露戦勝に歓喜していた当時の日本人の多くにとっては、内村の指摘など単なる空言にすぎなかったのでしょう。
なぜなら、戦勝の意義や戦争というものの本質とは何か、を省みるよりも、勝利によって勝ち得た韓国や南満州における権益をいかに維持し、拡大していくか、のほうがはるかに切実な「現実問題」として現れてきていたからです。
そして、統治する空間が拡大したことは、その先により広い空間の獲得を要求することになります。
しかも、それは山県有朋の主権戦と利益線の議論がそうであったように、けっして植民地獲得のための拡張としてではなく、あくまでも自国防衛のためとして正当化されます。
日露戦争の開戦にあたって「自個生存の権利のために戦うなり。満州守らざれば朝鮮守らず、朝鮮守らざれば帝国守らざればなり」(「宣戦の大詔を捧読す」1904年2月)として、それを自存のための戦争と唱えた徳富蘇峰は、韓国を併合すると、つぎには「日本の防衛は、朝鮮においてし、朝鮮の防衛は南満洲においてし、南清洲の防衛は内蒙古においてす」(「満蒙経営」1913年)として、清洲から内蒙古への拡張を主張します。
そして、中国の主権回復運動にさらされると、「満蒙は日本の生命線」として死守することが日本生存のための唯一の道とされ、それが1931年の満州事変を引きおこし、満洲国を作るとそれを守るために華北を越え、さらに中国全土へと戦線を拡張していかざるをえない、という間断なき戦争の連鎖を引きおこしていったのです。
そして、いったん領土拡張が自己目的化してしまえば、それがなんのためなのか、という意味を問い直すことさえできなくなります。
山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.206-207)


・数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレポネーマ・パリドゥム)が発見された。
(シャウデン、ホフマン、シュルツェ)(1905年5月24日)❞