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悪魔崇拝者から人類を開放し、宇宙を平和な生活圏としよう

❝USA第51州の実態(026)昭和21年戦後の混乱❞

❝USA第51州の実態(026)昭和21年戦後の混乱❞

❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】❞
(初稿1999.10.29)
❝平成15年5月16日改定 岡山県井原医師会鳥越恵治郎
(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」
この記事は一冊の本になるような長文の論文です。
学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通して日本の権力構造を解明しています。❞

プロローグ
 ❝ ※筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。
一体それはどこから来るのだろうか?。
小さい島国で飽くことなく続いた権力闘争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。
そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、創作)をもって国民を飼い馴らしている。
いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。
まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪しいシステム」の本質を分析してみた。
( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産で将来何ができるかという可能性のことである。詳しくはアマルティア・セン著『不平等の再検討』を参照)
昭和天皇の在位が半世紀に達した1975(昭和50)年10月、天皇ははじめてーーまた唯一ともなったーー公式の記者会見を皇居内で行なっている。
日本記者クラブ理事長が代表質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が立って関連質問をした。
記者:「天皇陛下ホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。
また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」。
天皇:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。(朝日新聞、1975年11月1日)(後藤正治氏著『清冽』中央公論社、p.155)❞



❝USA第51州の実態(026)昭和21年戦後の混乱❞

目次 

❝1946年(昭和21年2月4日)):「日本国憲法」公布。
天皇の「人間宣言」。当たり前だ!!(昭和21年(1946年)1月1日)
 <マッカーサー天皇感ーーアイゼンハワー宛て極秘電報ーー>
連合国最高司令官(SCAP)により極東国際軍事法廷が正式に開設
された。(昭和21年1月19日)
■昭和の徳政令:いわば借金の踏み倒し(S21.2月25日、幣原内閣)
・突然の預金封鎖(S21.2.17)
・農地改革による地主からの資産没収
・戦時国債(戦時に国民から徴収した、国民への借金)の無効化
・新円切り換え(十円以上の紙幣は3月2日限りで無効。5円以下は
今まで通り)
戸田城聖創価教育学会を「創価学会」と改称。ますます宗教団
体としての性格が強まった。(S21.3)
・インフレーション防止の緊急令(昭和21年)二月十六日
一、金融緊急措置令
二、日本銀行券予入令
三、臨時財産調査令
四、隠匿物資等緊急措置令
五、戦後物価対策基本綱領
■日本経済は軍需産業消滅、財閥解体、国家賠償、指導者の追放、
インフレの進行などで支離滅裂の状態。
ハイパーインフレの実相>
アメリカで”RAND(Research and Development。研究開発)”が誕生(1946.3.1)アメリカ陸軍航空軍第二次世界大戦後の軍の戦略立案と研究を目的に 「ランド計画/Project RAND」を設立した。
極東軍事裁判開始(1946年5月3日~1948年11月12日)
■戦後初の総選挙(昭和21年、1946年4月10日)
■「日本アナキスト連盟」結成(昭和21年、1946年5月12日)
石川三四郎、岩佐作太郎、近藤憲治ら6月15日第三次『平民新聞』発行
■第一次吉田内閣の発足(昭和21年、1946年5月22日)
●中国が全面的な内戦に突入(第二次国共合作の崩壊)1946年7月、蒋介石共産党地区への攻撃を開始。



本文

1946年(昭和21年):「日本国憲法」公布。
★日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。
客観的情勢は冷酷に、 日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起できないであろう。
 自由と平和は、自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽出来
るしろものではないのだ。(昭和21年2月4日)
山田風太郎氏『戦中派焼け跡日記(昭和21年)』小学館、P76より)

天皇の「人間宣言」。当たり前だ!!(昭和21年(1946年)1月1日)
マッカーサー天皇感ーーアイゼンハワー宛て極秘電報ーー>
マッカーサードワイト・D・アイゼンハワー陸軍統合参謀総長に宛てた極秘電報の要旨そのものであった。
天皇の戦争責任を調査せよというワシントンの指令への返事であるこの電報
のなかで、マッカーサー天皇擁護のためにあらゆる努力をはらった。
「調査はすでに実施されたが」ーー1月25日、最高司令官はアイゼンハワーに報告しているーーしかし、過去10年の間に裕仁が日本の政治的決定に関与したといういかなる証拠も発見されなかった。
マッカーサーは、天皇を「日本国民統合の象徴」であるとし、もし天皇が告発されるようなことになれば、国民は「深刻な動揺」によって「ばらばらになり」、「復讐の戦いが何世紀にもわたって繰り返されることになるだろう」し、政府機関の機能は停止して「開明的な試みの多くは停止し」、ゲリラ戦が始まるだろう。
近代的な民主主義を導入する望みはすべて消え、占領軍が去ったあとには、「ばらばらになった大衆のなかから、おそらく共産主義の路線に沿った強力な統制が生まれてくるだろう」と警告した。
(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.69-70より)

連合国最高司令官(SCAP)により極東国際軍事法廷が正式に開設された。(1月19日)
■日本の開業医60000人、復員軍医20000人、医学卒業生6000人。
■昭和の徳政令:いわば借金の踏み倒し(S21.2月25日、幣原内閣)
・突然の預金封鎖(S21.2.17)世帯主は月300円、世帯員は100円まで引き出し可能。
封鎖された預金は激しいインフレによって二束三文となった。
・農地改革による地主からの資産没収
・戦時国債(戦時に国民から徴収した、国民への借金)の無効化
・新円切り換え(十円以上の紙幣は3月2日限りで無効。5円以下は今まで通り)
戸田城聖創価教育学会を「創価学会」と改称。
ますます宗教団体としての性格が強まった。
(S21.3)
         
-------------<毎日新聞社正蔵の日記より>-------------
(昭和21年)二月十六日  雨降り続く
先週の土曜に発せられるはずであつたインフレーション防止の緊急令は諸準備がとゝのはないために一週問おくれとなつて、いよいよ今日の午后一時半発表。
明日から実施されることになつた。
そのために、社の編輯局内は最近めづらしい緊張、活気を呈した。
この措置がうまく運ばなければ日本は敗戦から滅亡に落る。

一、金融緊急措置令
モラトリアムはもう僕たちの記憶にかすかに残つてゐるだけだが、今また現実に出て来た。
僕たちは今月から最近五百円の現金収入が社から、後は預金で封鎖。
別に世帯主として三百円の預金引き出しが月毎に出来るのと、新円への交換が百円だけ(これは一回きり)出来るのみ。
しかし僕の場合は戦災者として一回きり一千円の新円による預金引出しが出来ることゝならう。

二、日本銀行券予入令
二十五日から三月七日までの間に新円券と旧円券の交換が行はれる。
三月二日以後は旧券の使用は無効となる。
新円は百円券と十円券とが現はれた。

三、臨時財産調査令
三月三日午前零時を期しての財産調査実施。
そして四月二日を期限とするその申告書提出。

四、隠匿物資等緊急措置令
一定の調査物資について所定数量以上をもつてゐる者は三月十日までに届出なければならぬ。

五、戦後物価対策基本綱領
新物価体系が組まれた。
限定価格と呼ばれる。
これでどんどん昇る市場の物価が新しい統制のもとに置かれることゝなる。
これ等に続いて「食料緊急措置令」や「失業対策令」や「生産命令」などが出る予定である。
今日出た限りのものを見ても、賛否の評しきり。
しかしやつてみなければどうなるか判るものではない。
(森正蔵氏著『あるジャーナリストの敗戦日記』 ゆまに書房、pp.242-243)
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■日本経済は軍需産業消滅、財閥解体、国家賠償、指導者の追放、インフレの進行などで支離滅裂の状態。
昭和21年6月には失業者は560万人いた。
国鉄運賃は旅客1.5倍、貨物3倍になる)         

・ハイパー・インフレの実態(米一俵の値段)
敗戦時     : 18円80銭
昭和20年12月31日: 60円
昭和21年12月31日:220円
昭和22年12月31日:700円
副島隆彦預金封鎖祥伝社より)

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 <ハイパーインフレの実相>
しかし天皇の放送のあとに現実に起こったジャンプは、ほとんどが狂乱と破壊のそれだった。
民間請負業者の手元にあった資材はいうまでもなく、軍の備蓄物資までが、
隠匿されるか、まっすぐに闇市に運ばれた。
陸軍、海軍、軍需省(筆者注:S18(1943).11.1、戦争指導強化のため、商工省の大部分と企画院が統合され発足)の役人たちはすぐさま巨額の金を引きだして、請負業者に支払い、自分のポケットや気に入った仲間のポ ケットに詰めこんだ。
大蔵省と日本銀行は、何百万人という解雇された労働者や復員兵の手当にしようと、印刷機にはりついて、インクの跡も生々しい紙幣を国中にあふれさせた。
同時に、国民の不安を和らげるために、戦時中の個人預金口座からの引出し制限を解除した。
まじめな帳簿付けは放棄され、記録は意図的に破棄された。
このすべての結果が、財政と経済の混乱と、貪婪(どんらん・たんらん。酷く欲が深い)なまでのインフレの始まりで、結局これが経済をすっかり食いつぶすことになった。
(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.346-347より)

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●元英首相テャーチル、米国で「鉄のカーテン」演説(冷戦のはじまり)1946.3.5
アメリカで”RAND(Research and Development)”が誕生(1946.3.1)
RAND設立の最大の功績者はカーチス・ルメイ、冷酷で攻撃的で悪魔の化身ともいうべき男。
RANDはアメリカの戦後戦略の殆どを立案した。
他にヘンリー・ハーレー・アーノルド元帥とフランク・コルボム(ダグラス社幹部)が協力。
(アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』牧野洋訳、文藝春秋、pp.22-25)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

【※1946年にアメリカ陸軍航空軍が第二次世界大戦後の軍の戦略立案と研究を目的に 「ランド計画/Project RAND」を設立した。設立当初にダグラス・エアクラフトと契約して1946年5月に人工衛星の基礎研究である「実験周回宇宙船の予備設計」(Preliminary Design of an Experimental World-Circling Spaceship) をリリースした。1948年5月に「Project RAND」はダグラスから分離されて独立NPOとなった。その後、軍事関連の戦略研究から民生分野の公共政策・経済予測や分析、様々なコンサルティングへ分野を拡げたが、2004年の年報で「ランド研究所の研究の半分に国家安全保障問題が関係している」と記している。】

設立目的

アメリカ合衆国の公益と安全のために、科学、教育、慈善の促進を目的として」設立された非営利組織。自ら宣言した目的は自らの「高い品質と客観性」を使って「調査研究を通して政策や意思決定を改善することを助ける」。
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極東軍事裁判開始(1946年5月3日~1948年11月12日)
米国政府は日本敗戦にあたって、日本の戦争指導者と戦争犯罪を処罰する方針として、ドイツの場合にならって、彼らを「主要戦争犯罪人」(A級戦犯)として、戦時国際法に規定された「通例の戦争犯罪」に加えて、侵略戦争の計画・準備・遂行などを犯罪とする「平和に対する罪」、戦前または戦時中の一般住民に対する非人道的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という戦争犯罪概念で訴追し、国際裁判方式をとるとの意思を固めていた。
しかし同時に、すでに準備がなされていたニュルンベルク裁判をめぐる他国との折衝の経験から、日本の裁判もドイツの例に準拠することが望ましいが、裁判所の設置と施行規則、戦争犯罪概念の規定は、連合国間の協定によるよりは、一方的にSCAP(連合国軍最高司令官)のマッカーサーが決定するかたちにすべきだとの方針も固めた。
(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.33)

<余談>東京裁判の劈頭(へきとう)で被告東条英機の頭をピシャリとやったのは大川周明(精神異常?)だった。

アメリカ占領下の日本 第3巻 東京裁判 
https://www.youtube.com/watch?v=j73JmmGBRTg

大川周明の行為 7:45~

【※大川周明:日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴された。 しかし梅毒による精神障害と診断され、訴追免除となった。】

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対象時期を昭和3年1月1日から昭和20年までとした。
この軍事裁判は東条らに全ての戦争責任を負わせた陰で、アメリカは、情報将校だった元軍人らを免責し、戦後の情報工作に利用した。
東京裁判は旧軍人や政治家らの戦争責任を公平かつ公正に裁いたわけではなかった。
(1948年、昭和23年12月23日絞首刑執行)
広田弘毅:「この裁判で文官のだれかが殺されねばならぬとしたら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」
※ 常に戦争防止に努めながら、一切の弁解なしに従容として処刑の運命を受け入れた広田弘毅を我々は忘れてはいけない。
(ただし、広田弘毅昭和13年当時は中国に対する武力制圧論者だった。広田弘毅の善悪については諸説あり)

※ 昭和53年10月に靖国神社は絞首刑となったA級戦犯7人と巣鴨プリズンで病死した7人を合祀した(松平永芳宮司の抜き打ち合祀)。

※ ・・開戦責任、あるいは戦下での国際法違反や、非人道的行為といった限定された事由ではなく、「平和」や「人道」そして「文明」に対する全体的侵害という、きわめて包括的かつ広範な罪状によって、「戦犯」たちは起訴されることになったのである。
このような姿勢が、アメリカのきわめて独善的な姿勢、過去に南北戦争の戦後処理において極めて明確に表れている、自らを絶対の正義となし、敵を悪ととして徹底的に糾弾しないではいられないピューリタン的潔癖とその徹底があいまってのものに起因していることはいうまでもない。・・(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

※ 東京裁判の不公平性、起訴根拠の脆弱性の一つについて東京裁判は別の批判に対しても脆いことが証明された。
A級戦犯として誰を起訴するかの決定に一定の政治的恣意性が働いていたことである(驚いたことにジョセフ・キーナン自身が、検察側の冒頭陳述において、「我々はいずれの個人に対しても、またその処罰に対しても、特別の興味をもつものではない。被告たちはある意味で一つの階級あるいは集団の代表である」と率直に認めている)。
よしんばこれが「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を問うための発見学習的あるいはショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。
人びとに恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。
超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。
日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。
また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。
満州七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである(研究結果をアメリカに教えることを交換条
件に訴追を免れた)。
中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追及しなかった。
さらには、東京裁判の裁判官の人選もかなり奇抜だったというか、少なくともいきあたりばったりだった。
11人の判事のうち、もっとも明敏で、人びとの記憶に残ったのはレーリンク判事とパル判事で、ふたつの主要な反対意見を書いている。
国際法にそれなりの経験があったのはパルだけだった。・・・
(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、pp.260-261より)
東京裁判の問題点
荒井信一氏は著書『戦争責任論』(岩波書店)のなかで東京裁判の問題点として、”裁かれなかった問題点”をうまく纏めて述べている(pp.192-198)。以下主要テーマのみ掲げる。

  1. 戦争で主要な被害を直接受けたアジアの国々の民衆の被害が裁かれなかった。
    2. ”人道に対する罪”が追求されなかった。
    3. 裁判の早期打ち切り。
    なお筆者は東京裁判天皇を裁かなかったことも問題点の一つであると思っている。
    ちなみにオーストラリア政府の天皇告発の覚え書きを引用しておく。
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    天皇裕仁は個人的には、平和的願望と自由主義的な思想の持ち主であることは疑いないようだが、帝国憲法の規定では、宣戦、講和、条約締結の権限は天皇にあり、侵略戦争を認可したことは戦犯としての個人的な責任となる。天皇満州事変での林銑十郎朝鮮軍司令官の独断出兵、日本軍の錦州出撃、さらに35年の日本軍の長城線越境などに停止を命じたが、後にはこれらを認めた。
    また37年の中国侵略(日中戦争)を正式に認可し、また太平洋戦争は天皇の開戦の詔書によって開始したものである。
    米国国務省真珠湾奇襲の天皇の責任を、軍国主義者の脅迫によるものとして、免除しようとしているが、実際は彼がいつも軍に脅迫されていたわけではない。
    彼が本当に平和主義者ならば戦争を拒否できたし、退位や自決(ハラキリ)によって抗議できたはずである。
    たとえ戦争を良いと思っていなかったとしても、開戦を認可したのだから、それだけで責任がある。
    (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.154)

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■戦後初の総選挙(昭和21年、1946年4月10日)
自由党:141、進歩党:94、社会党:93、協同党:14、共産党:5、諸派:38、無所属:81という勢力図となった。(-->鳩山一郎追放)

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■「日本アナキスト連盟」結成(昭和21年、1946年5月12日)

【※アナキズムアナーキズム)は、国家や宗教など一切の政治的権威と権力を否定し、自由な諸個人の合意のもとに個人の自由が重視される社会を運営していくことを理想とする思想。 四大巨頭とされる著名な思想家はウィリアム・ゴドウィン、ピエール・ジョゼフ・プルードン、ミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキンアナキズム自由主義的な立場である個人主義無政府主義と、社会主義的な立場である社会的無政府主義にも分類され、アナキズムの支持者はアナキストアナーキスト)と呼ばれる。】

石川三四郎、岩佐作太郎、近藤憲治ら6月15日第三次『平民新聞』発行
<『平民新聞』発刊の言葉、近藤憲治>
われらいま、当時の諸先輩の決意と不屈の精神を回想し、身のひきしまるのを覚える。
同時に、すぐる幾年かの戦争下にわれら何をなしたるかを思うとき、まことに冷汗三斗の感なきを得ない。
1946年6月15日、ここに三度日の平民新開発刊さる。
現下の日本の情勢はまことに未曾有の危機である。
経済は混乱し、文化は低下し、食糧、住宅、失業などの緊急の問題は山積している。
敗戦によって日本の軍国主義はいちおう終息した。
自由は高唱され、民主主義のかけ声は一見さかんなるものがある。
しかしながら眼を開いてみよ。
どこに自由があるか。
封建的思想は根強く巣くい、社会機構の急所急所はいぜんとして資本家、官僚の手にしつこく握られている。
われわれはその城壁にツルバシ一本うちこんでいないのである。
自由は与えられるものではなく、みずからの力によって、獲得すべきものであることを、今日ほど痛感させられるときはない。
さればわれわれはこの一大転機をとらえて、自由のために、平等のために、果敢なる戦いを開始しなければならない。
なおまた、眼を転じて目前に展開されつつある解放運動をみよ。
口に労働者農民の解放を叫びながら、その根本の思想において旧制度の継承者に過ぎないものをみる。
ふるい主人を追い出し、新しい主人となって民衆にのぞもうとするものを見るのである。
強権はたとえそれが民衆の名によるものであるとしても、常に人民の敵である。
われわれはこの際、ほんとうの解放運動者と、今はわれわれの味方だといっているが、やがてはわれわれ民衆の敵になるものどもとを、厳重に区別しておかねばならぬ。
これはわれわれのなし遂げなければならない革命を暗礁に乗りあげさせないために、最も必要なことである。
さらにわれわれは、われわれが旧制度を打ち倒すためには、そして新秩序による新社会をつくり上げるためには、ひろく全世界の同志に呼びかけ、その協力によるのでなければ成就し得るものでないと考える。
その意味において、本紙はわが解放運動の一機関であると同時に、全世界解放運動の機関である。
その責任を感じ、その誇りをもってここに第三次「平民新聞」を発刊する。(松下竜一氏著『ルイズ』講談社、pp.170-171より)

++++++++++++
※ただし、このアナキズム(社会的個人主義?)運動は1950年には分裂し、「平民新聞」も絶えている。
その後は副島辰巳の発行する「クロハタ」が全国的なアナキズム機関紙となってゆく。

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■第一次吉田内閣の発足(昭和21年、1946年5月22日)
吉田茂は、アメリカ情報機関との協力の基礎を築くとともに、内閣調査室、公安調査庁といった日本の情報機関を発足させた。
吉田のことを「日本情報機関の父」といってもいいだろう。
(春名幹男氏『秘密のファイル CIAの対日工作<下>』より)

※戦後初の総選挙から、鳩山追放、幻の吉田追放案、第一次吉田内閣組閣までの間米情報機関が絡んで暗闘が展開されたのは間違いないだろう。
※当時の右翼の大物、三浦義一と矢板玄蕃が支配する”金銀運営会”(大蔵省総務局長迫水常久も関与)が吉田茂の政治金脈の一つだったらしい。(柴田哲孝氏著『下山事件 最後の証言』、祥伝社、pp.228-230より)
吉田茂は戦前から終始一貫「軍部の暴走がこの国を滅ぼした」と思っていた。

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●中国が全面的な内戦に突入(第二次国共合作の崩壊)
1946年7月、蒋介石共産党地区への攻撃を開始。
<モスクワからの毛沢東中国共産党)への支援>
モスクワによる共産党軍の再武装は急速に進められた。
ソ連は日本製の航空機900機、戦車700輌、3700基以上の大砲や迫撃砲や擲弾発射筒、1万2000挺近い機関銃、さらに松花江に浮かぶ相当規模の小型艦艇部隊、おびただしい数の装甲車や高射砲、何十万挺ものライフルを共産党軍に引き渡した。
日本の主要な武器庫があった北朝鮮からは、貨車2000台以上に満載した兵器
や軍用賀材が鉄道で運ばれてきた。
さらに、外モンゴルからも日本軍から鹵獲(ろかく)した武器が届いた。
ソ連製の武器も運び込まれた。
ドイツ製の武器はマークを削って、アメリカから奪った武器のように見せかけてあった。
加えて、ソ連はひそかに日本人の戦争捕虜を何万人も中国共産党に引き渡した。
日本人捕虜部隊は、みすぼらしい共産党軍を強力な戦闘集団に変身させるうえで大きな役割を果たし、共産党軍が持っている兵器の大部分を占める日本製兵器の操作、手入れ、修理方法を教えるうえでも重要な役割を果たした。中国共産党の空軍を育てたのも、日本人捕虜だった。
日本人パイロットは飛行機に同乗して共産党パイロットに操縦を教えた。
数千人にのぼる熟練した日本人医療スタッフは、共産党軍の負傷兵にはそれまで緑のなかった高度の専門治療をほどこして非常に歓迎された。
なかには共産党軍の戦闘に参加した日本人部隊もあった。
もうひとつ、きわめて重要な役割を果たしたのは、ソ連占領下の北朝鮮だった。
ソ連北朝鮮から武器を供給しただけでなく、日本軍やソ連軍のもとで訓練された20万の強者ぞろいの朝鮮人正規兵部隊も派遣した。
加えて、中国東北と800キロの国境を接する北朝鮮は、中国共産党が「我椚隠蔽的后方」(我々の秘密後方)と呼んだように、貴重な抜け道としても役立った。
1946年6月、敗走中だった共産党軍は、部隊や傷病兵や軍事物資を北朝鮮に退避させた。
国民党軍が東北の中央部をほぼ制圧していたため、共産党軍は南北に分断される形になっていたが、北朝鮮を経由することによって南北の連絡を取り、あるいは中国東北と中国東岸、とくに重要な山東省との連絡を取ることが
できた。
この巨大な輸送システムを監督するため、中国共産党ピョンヤンおよび朝鮮の4つの港に事務所を開設した。
ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.500-501)
蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍事を動かした。
そしてそのような弱点とまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。
ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.524) ❞



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